奈良平安期の寺社     八雲神社

八雲神社(祇園天王社)

五味文彦・馬場和雄編『中世都市鎌倉の実像と境界』の中の「中世都市鎌倉成立前史」に祇園天王社がでてきて、いったい何処だろうと探し回ったら・・・、

なんのことは無い八雲神社のことではないけ!
八幡太郎義家が引き起こした後3年の役のときに、新羅三郎義光が兄を助ける為に官職をなげうって駆けつけたと言う美談?が「奥州後三年記」にあるのですが、これですね。

将軍の舎弟左兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、ほのかに戦のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられてあぶなく侍るよしうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上るを、いとまをたまはらざりしかば、兵衛尉を辞し申てまかりくだりてなんはべるといふ。義家これをきヽてよろこびの涙ををさへて・・・「奥州後三年記」

縁起

その新羅三郎義光が鎌倉に疫病が流行しているのをみて、「厄除神」として霊験の聞こえた京都の祇園社を勧請したと伝えられています。
また室町時代、足利成氏が関東管領の頃は(1449年)当社の神興が管領屋敷に渡御し奉幣の式が行なわれたことが「鎌倉年中行事」に記されているそうです。

八雲神社略記
祭神 須佐之男命、稲田比賣命、八王子命、佐竹氏の霊 
由緒 永保年中、新羅三郎源義光公の勧請と伝う。室町時代、関東官領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。戦国時代、小田原城主北條氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜し、慶長9年、徳川家康公は永楽五貫文の朱印地を下賜された。古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。 
祭礼 祭礼の神輿渡御に伴う「天王唄」や「鎌倉ばやし」の神事芸能を伝え、正月6日には「湯花神楽」が行はれる。

それが八雲神社になったのは明治になってから。明治元年五月に本家?の祇園社も八坂神社と改称していますね。

傍証は?

でも傍証は? 散々痛い目に遭っているんで神社の縁起だけじゃね〜。フキフキ "A^^;
がまあ、安心してもよさそうで、『吾妻鏡』にそれらしきものがでてきます。

『吾妻鏡』 安貞2年(1228)7月16日条
「天晴、南風烈し、申の刻、松童社の傍らより失火出来す。東西四町の内人家化燼しをはんぬ。竹の御所、纔に一町ばかりを相隔て、余焔を免がると。武州参らると。 」

武州って三代執権北条泰時じゃなかったかな? 
「竹御所」は2代将軍源頼家の娘で比企一族とともに殺された一幡の妹、四代将軍九条頼経の妻の竹御前の館です。現在の妙本寺北東奥の墓地にあったと伝えられていますが私は否定的です。論文ネタなので詳しくはお話できませんが。

この竹御所との地理的な関係、そして江戸時代にこの神社は「松堂祇園社」「松殿山祇園社」とも呼ばれていたことから祇園天王社(現八雲神社)は確かに鎌倉時代初期には既に存在していたんだろうと推測されます。

義光と佐竹一族

とっても強い武将であった新羅三郎義光はこのでかい石をお手玉にしたと。
嘘付けって? いやホントですって、ちゃんと札にも書いてあるじゃないですか。(笑)

佐竹氏の成り立ち

祭神の中に佐竹氏の霊とあるのは新羅三郎義光が佐竹氏の祖先だからです。(甲斐の武田も義光の子からですが) 義光は後3年の役のあとこの近くの大宝寺の付近に館を構えたと言われていますが伝承です。良く解りません。佐竹氏は義光が勢力を伸ばした常陸国で義光の孫の代から始まります。

新羅三郎義光は後三年の役においてその義家の危急を救った功績?により50何歳かで受領の椅子を獲得とする説もあるようですが、よくよく考えるとあり得ないでしょう。

確かなのは義光は常陸の実質支配者であった常陸平氏大掾氏と結び、常陸に勢力を築きます。そして義光の嫡男義業もまた常陸大掾氏の娘と結婚し、徐々に常陸北部での勢力を強めていくことになります。このときに下野を中心に勢力を拡大していた義家の子義国とぶつかり何年も争っています。義業の子昌義は,常陸久慈郡佐竹郷を本拠とし、「佐竹冠者」と呼ばれました。この地名が「佐竹氏」の名の由来となっています。

頼朝挙兵

頼朝が挙兵したとき、佐竹氏は従いませんでしたが、まあそれはそうでしょう。佐竹氏は北常陸に巨大な勢力を持っていましたが頼朝はたかが流人。それを三浦氏や相馬荘を巡って佐竹氏と対立していた千葉介、上総介が担いだだけです。おまけに1180年(治承3)源頼朝が挙兵したときの当主佐竹隆義で大番役として京都に出仕しており、太田城には隆義の子、太郎義政(政義とも)、四郎秀義兄弟が居ました。また「源平の戦い」と言ってもそれぞれの大将が源氏と平家だったと言うだけで平家全体対源氏全体ではありません。
富士川の合戦までに頼朝の元に合流しなかったのは後に頼朝を蹴落とそうとした叔父・志田三郎先生(せんじょう)源義広、あとでやっと取りなしてもらった新田義重などもそうです。が佐竹の勢力は大きかったのです。

佐竹攻め

富士川で平家を破った頼朝軍はとって返して佐竹に当たります。これは上総介常広らが平家なんかほっといてまず関東の足場を固めようと主張したからです。そして11月4日に常陸に軍を勧めます。しかしこの戦、初めっから上総介常広の陰謀で始まりました。吾妻鏡を信ずればですが。
留守を守っていた二人の子のうち佐竹太郎義政は上総介常広に誘われて交渉の為(頼朝に従うことを決めとの説もありますが)、常陸府中の陣所に赴く途上で上総介広常により殺されます。まるで上総介広常の将来を予言しているようにも見えますが。(苦笑)

1180年(治承四年、庚子)11月4日 壬子
・・・先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その従兵義政を軼す。また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上すべからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる。然れども義政は、廣常が誘引に依って、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦足逃走す。その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。

頼朝は翌5日に佐竹氏の居城である金砂城(かなさじょう)を攻めますが守りは堅く、またしても上総広常の陰謀で佐竹秀義の叔父・佐竹蔵人義季を寝返らせその案内で城の後方を奇襲し、結果秀義は奥州に敗走します。

11月5日 癸丑
・・・廣常申して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。
賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依ってその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。

こうして頼朝の佐竹攻めは成功しますが、このとき逃亡した佐竹の家人達が出て来てその中に一人しきりに涙を流す者がおり、頼朝公に言いたいことがあるから出てきたんだと。

11月8日 丙辰
・・・申して云く、平家追討の計りを閣き、御一族を亡ぼさるるの條、太だ不可なり。国敵に於いては、天下の勇士一揆の力を合わせ奉るべし。而るに誤り無き一門を誅せられば、御身上の讎敵、誰人に仰せて退治せらるべきや。将又子孫の守護は何人たるべきや。この事能く御案を廻さるべし。当時の如きは、諸人ただ怖畏を成し、真実帰往の志有るべからず。定めてまた誹りを後代に貽さるべきものかと。

平たく言えば
「平家追討をさしおいて同じ源氏の一族を滅ぼすなんてとんでもないことだ。国敵平家には源氏が力を合わせて当たらなければならないのに、罪もない源氏の一族を殺すならば、御身の敵は誰に命じて退治させるつもりか。また御子孫の守護はどうするのか。今は関東平氏も頼朝公の勢いを怖れて従っているが本心はどうかわからない。さだめて後代に憂いをのこすことになるぞ!」 と。
上総介広常は「早く切ってしまえ!」と主張しますが、頼朝はそれをとどめて「なんと勇敢な、忠義な者だ」と言ったのかどうかは判りませんが許したばかりか御家人の列に加えたと。その直言をしたのは岩瀬与一郎と言い実は私の家の近くの岩瀬と言うのがその者に与えられた土地らしいです。と言うのはこちらに。岩瀬五社神社(稲荷神社)

しかし『吾妻鏡』を読んでいると(拾い読みですが)どうも佐竹攻めをやりたかったのは上総介広常のような気がします。勿論、上総介だけじゃなくて千葉介も相馬荘を奪われたりと恨み骨髄、平将門や、上総介・千葉介の祖先である平忠常の頃から常陸と房総は色々と対立しています。更に上総介も千葉介も義の為に参じたと言うより「これを機会に!」ですから。

頼朝挙兵の報に接して「これを機会に!」を一番発揮したのが上総介広常です。広常は義朝のご家人でその頃より鎌倉に館を持っていたという伝承があります。ただしその出所が判りません。

 

その後の佐竹氏と鎌倉の館

ところでそのとき敗走した佐竹四郎秀義ですが、どうもその後、佐竹家の家来らの嘆願により秀義の頼朝への帰順が認められ,所領(の一部?)は返還されたらしいです。岩瀬与一郎も必死に頼朝に懇願したのでしょう。1189年の奥州攻めでは手勢を率いて頼朝に合流します。

1189年 (文治5年)7月26日の条
宇都宮を立たしめ給うの処、佐竹の四郎、常陸の国より追って参加す。而るに佐竹持たしむ所の旗は、無文(紋)の白旗なり。二品(頼朝)これを咎めしめ給う。御旗と等しかるべからざるが故なり。仍って御扇(出月)を佐竹に賜い、旗上に付くべきの由仰せらる。佐竹御旨に随いこれを付くと。

これは頼朝公の旗と同じ源氏の紋がでは失礼にあたるからと読めるんですが、でも頼朝は無紋の白旗で、同族と言えども無紋の白旗を許さなかったと書いているサイトも有ります。良く判りません。それはともかくこの一件から「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とあります。

頼朝が奥州藤原氏討伐のため宇都宮に在陣した際に降伏し、御家人となった。

と書いているサイトもありますが、これも良く判りません。ただ『吾妻鏡』を読んでいると、見たとおり単に「佐竹の四郎、常陸の国より追って参加す」ですからその前に許されていたような感じです。
と言う訳で佐竹氏は決して滅んだ訳ではなく弱体化しただけです。秀義は子の義重らと頼朝、そして鎌倉幕府への忠勤に励み、承久の乱に際しては大きな軍功を挙げて、美濃国に所領を与えられるなどしています。その佐竹四郎秀義の鎌倉での屋敷(議員宿舎?)がこの八雲神社(祇園天王社)の近くの大宝寺あたりにあり、以降代々室町時代までその館は続きます。義光の館が有ったと言われるのはそこから始まったんではないでしょうか? 最も義家、義綱、義光の3兄弟は同じ母を持ち、その母はこの鎌倉を3兄弟の父頼義に譲った平直方の娘ですから3人とも館が有ってもおかしくは無いのですが。

脱線

ちょっと脱線しますが佐竹氏は戦国時代も生き残りますが、例の関ヶ原の合戦のときに西軍について,と言うか曖昧な態度をとったので、常陸国(50万石)を追い出され、確か出羽国かなんかに改易になります。20万石ぐらいだったかな?
中学の頃、歴史の本を読んでいて「またかい!」って思いましたね。時代の流れを読むのが下手って印象。まあ後から見ればですが。もっともその当時私も「佐竹って頼朝にやられたはずなのに、残党が室町時代まで山の中に隠れてたんかしらなんて思ってましたが、違うのね。隠れていたのは数年だけみたいです。(笑)

いいかげんに書いたとこ(佐竹氏)はあとでちゃんと直します。

2016.7.23 更新