武士の成立−院政時代  源義家の経歴

05_0611_UN_03.jpg

出生と没年

生没とも諸説あってはっきりしませんが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力です。

源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もありますが、いずれも伝承の域を出ません。ただし、源頼義の相模守在任中ということであれば、鎌倉生誕説も有力になってきます。一方の河内国壷井の香炉峰の館説は、源頼信が河内守となったのは1045年頃であって、既に義家は生まれています。

幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれます。

前九年の役から下野守まで

鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定します。

しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原家衡の乳母(乳母父)千任に

なんぢが父頼義、(阿部)貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎭守府将軍清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま(阿部)貞任らをうちえたり。恩をになひ徳をいたヾきていづれの世にかむくひたてまつるべき。しかるを汝すでに相伝の家人として、かたじけなくも重恩の君をせめたてまつる不忠不義のつみ、さだめて天道のせめをかうぶらんか

といわれて激怒したことが載っており、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判ります。

1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任されます。しかし出羽国はその清原氏の本拠地。清原武則にはその前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されています。というか、義家が差し出した転任願の文面が参考例のような形でそのまま掲載されているのです。ただし、年月までの記載はなく、またそれが受理・承認されたかどうかは不明です。尚、この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦しています。

1070年(延久2)には義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶養略記』8月1日条に書かれています。当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功しましたが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えません。この件に関して野口実氏は義家陰謀説も出されています。

白河帝の爪牙

1079年(承暦3)8月 美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗(清和源氏満正流4代)を官命により追討。

1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補 (『扶桑略記』)。その年の10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人で、それぞれの郎党を率いてを護衛しますが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行います。さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服、または武者の服装)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれています。

更に同年12月 4日の白河天皇の春日社行幸に際しては、義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護しています。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめていることが解ります。後の「北面の武士」の下地にもなった出来事す。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍しています。

後三年の役

05_0611_UN_02.jpg

1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまります。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではななく、朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりもし、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされています。

後三年の役において動員した兵は、石井進氏の国衙軍制[1]の概念図にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者(大半は側近、または京でのコネクションを思わせる辺境軍事貴族)と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われます。

最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えません。

1087(寛治1)12月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破り、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請しますが、朝廷はこれを「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)には陸奥守を罷免されます。

この戦いは、何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが当時の記録に残ります(後述:『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2) 2月25日条)。当時の法制度からは定められた官物を収めて受領功過定に合格しなければ新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれました。

弟義綱

1091年(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、源義家・源義綱が兵を構える事件がおき、京を震撼させます。(後述

弟源義綱はその年1091年(寛治5)の正月に、関白師通が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌1092年(寛治6)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、1093年(寛治7)12月には、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記に見えますが、義家の方は1104年まで、そうした活動は記録にありません。

1093年(寛治7)10月の除目で、源義綱は陸奥守にに就任。翌年の1094年(寛治8)には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄義家と並び、更に翌年の1095年(嘉保2)正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任します。

その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及びます。関白藤原師通は大和源氏の源頼治と源義綱に命じてそれを実力で撃退しますが、このときも比叡山延暦寺・日吉神社側の神人・大衆に死傷者が出て、比叡山側は朝廷を呪詛します。比叡山延暦寺は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったでしょう。それに追い打ちをかけたのが、その4年後の1099年(承徳3)6月に、当事者の関白関白師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののきます。このことの影響か、このあと源義綱が受領に任じられることはありませんでした。

院昇殿から没まで

後三年の役から10年後の1098年(承徳2)に

今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被忩(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏(『中右記』正月23日条)

と白河上皇の意向もあり、やっと受領功過定を通ります。そして翌年4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許されました。しかし、その白河天皇白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条の裏書きに「(たしかに)義家朝臣は天下第一武勇の士なり。(しかし)昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書きます。有名な「天下第一武勇の士」はこうした分脈の中で書かれたのですが、「天下第一武勇の士」だけが一人歩きしている感がありますね。

1101年(康和3)7月7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い太宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下します(『殿暦』)。しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は1102年(康和4)2月20日、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまいます。そして12月28日、ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定します。

その後『中右記』によると、1104年(長治1)10月30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っていますが、これが記録に残る義家の最後の公的な活躍となります。

1106年(嘉承1)には別の子の源義国(足利氏の祖)が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下され、義国と争っていた源義光、平重幹等にも捕縛命令が出ます。 そうした中で義家は、1106年(嘉承1)7月15日に68歳で没しました。その翌日藤原宗忠はその日記『中右記』に、「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼したのも有名な話です。 

ところがその翌年の1107年(嘉承2)12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国目代を殺害、その周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は隣国因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じることになります。 翌年の1108年(天仁1)1月29日に平正盛は源義親の首級を持って京に凱旋、大々的な凱旋パレードが行われ、平正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びます。このパレードに対して、藤原宗忠は『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と書きます。前年の「武威天下に満つ」と、この「積悪の余り」はセットで読まなければならないでしょう。

伝承の世界

しかし、この源義家ほど伝承の世界で活躍した武将はいないのではないでしょうか。

前九年の役のとき、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎残った官軍の退却を助けた義家の射る矢は必ず敵に当たり、その技は神の如しであったとか、その後、清原武則が「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、義家は甲冑三枚を樹の枝に掛け、一矢でこれを射抜いたとの逸話が陸奥話記に記されています。これは同時代と言ってもよいぐらいの近い時代の記録や伝え書きを元にしたものですから、源頼義や義家の郎党の「よいしょ」話ですから「伝承」というほどではありませんが。

しかし、義家が2歳のときに用いた「源太が産衣」という鎧と、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったことから「髭切」(ひげきり)と名付けられた刀は、河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱では源頼朝が用いたという逸話が鎌倉時代初期の『平治物語』にあります。こちらは源頼朝が源氏の嫡流であると印象づけるための創作といわれています。ちなみにその「髭切」は、鎌倉時代後期から室町時代にかけては満仲からその子・源頼光に受け継がれた刀で、源頼光からその刀を預かった渡辺綱が鬼の腕を切り落したとまで増殖されていきます。

鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』には前九年の役の後、捕虜となったのち、家来とした(事実ではないが)安部宗任との話しがいくつかあり、射芸に秀で、意味もなく動物を殺そうとしない優しさ、更に射た矢を取ってきたかつての敵・安部宗任に背中を向け、背負った矢入れに入れさせた剛胆さ、更には神通力まで備えた超人的な武士として描かれています。

しかしその一方では以下のような伝承も残されています。

  • 京の義家の屋敷の近所の者が、ある夜に義家が鬼に引きずられて門を出て行く夢を見た。そこで義家の屋敷を覗うと、屋敷の中では義家が死んだと大騒ぎになっていた。あれは義家が地獄に引きずられていくところだったに違いない。
  • 父頼義も殺生の罪人で、本来なら地獄に堕ちるべき人間である。前九年の役で切り落とした首は1万八千、その片耳を取り集めて、乾して皮古二合に入て上洛した。しかし、後年仏門に入って、その耳を堂(京・六条坊門北の耳納堂)の土壇の下に埋めて弔い、自分の殺生を悔いたために最後は成仏できた。しかし義家は罪も無い人を沢山殺して、それを悔いるところも無かったので無限地獄へ堕ちた。(『古事談』)

今様狂いの後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」はそのような言い伝えを反映しているものと思われます。

それらの伝承は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのものですが、同時代の藤原宗忠がその日記『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、それらの説話も、個々には事実ではあり得ないながら、当時の京の人間の義家観として、義家の実像の一面を伝えているようにも受け取れます。

後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたという話もあります。ただし平安時代末期の『奥州後三年記』にはその記述はありません。

後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に室町時代から。

足利氏に伝わる伝承としては、「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という八幡殿(義家)の置き文が足利家に伝わったとされます。義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したと『難太平記』に。足利尊氏が北条氏打倒に立ち上がったのは、家時から三代後の子孫としてそれを見せられたからであり、『難太平記』の著者今川了俊も、自分もそれを見たと記しています。しかし、義家の時代に「天下を取る」というような概念は無ありません。

戦前の軍国主義華やかりし頃、大正元年・小学校唱歌「八幡太郎」にはこうあります。

落ち行く敵を呼び止めて ”衣のたては綻びにけり” 敵は見返り ”年を経し 糸の乱れの苦しさに” つけたることのめでたさに、めでてゆるししやさしさよ。

「敵」とは安倍貞任で、衣川関を捨てて敗走する安倍貞任を追う源義家が、矢を番えながら下の句を歌いかけると、貞任は即座にその上の句を返したので、義家は感じいって「武士の情け」と、矢を放つのを止めたという話で、出所は中世の説話集『古今著聞集』です。ただし江戸時代に水戸光圀が編纂させた『大日本史』の段階から「疑ふらくは、和歌者流好事家の所為に出でしなり。故に今、取らず」とされています。

その名声を恐れた白河法皇や、摂関家の陰謀によって、河内源氏は凋落していったとされるのは主に戦後です。現在研究者の間では本稿で紹介したような見直しが行われているが、ネット上ではその陰謀説はいまだに非常に根強いものがありますね。これは戦後の伝承といってもよいかもしれません。


尚、「天下第一武勇の士」と評したのは白河法皇と書いてあるサイトがネット上に散見されます。おそらくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の源義家の過去の記述が発端と思われますが、前述の通り藤原宗忠の日記『中右記』承徳2年10月23日条です。ウィキペディアの記述は直しておきましたが、かつてそれを真に受けて自分のサイトに書いた人達が、もう一度ウィキペディアで確認してくれるかどうかは・・・、そのままになるでしょうね。

まあ、このサイトでも時々嘘があるので、人のことばかり言えませんが。


2007.11.24
2008.02.02