武士の成立  源義家をめぐる論点.2  権門の脅威論

義家は領家・本所か

それにしても安田元久氏は「12世紀以降に見られる如き、いわゆる武家とは質的に異なっていた点に注意」 (p115)とか、「当時の貴族の一員としての側面を備えていた。」 (p116) 、さらに「後三年の役の間の、陸奥守としての義務履行について、未解決の問題が残っていたためでもあった。」(p134-135) と、その後の「通説」とは異なった指摘をされながら、なぜ「源氏の勢力が、院政当事者の抑圧策によって、その発展を阻害され」(p119-120)というような「通説」の元となる主張をされたのでしょうか。もっとも「通説」は何故安田氏のその指摘を無視したのかと問うた方が良いかもしれませんが。
安田氏の著書を読んでいると、ところどころ判断を迷いながら、現在知られる説を採られたようにも見えます。誠実な学者さんだったのでしょうね。

さて、ここでは福田豊彦氏(東工大名誉教授)を便宜上戦後第二世代とみなしておきます。その福田豊彦氏は既に見てきたところですが、1974年の『シンポジウム日本の歴史7 中世国家論』(学生社)の為に書かれた「王朝国家をめぐって」と言う論文でこうおっしゃっています。

この棟梁成立の時期は、通常、「武士長者」(『中右記』天仁元年正月24日)とよばれた義家の段階、11 、12世紀の境目ころとみるのが一般的であろうと思います。しかし、この時期にも源氏の経済的基盤は貴族的なものであり、源氏の地盤といわれる関東においても在地領主との間に所領支配に基づく主従関係は認められず、そうそた関係は12世紀の義朝期まで下らなければならない、という安田さんの指摘もあります。
・・・源氏のいわゆる直系に限られた棟梁研究ではなく、棟梁候補者あるいは棟梁と目された者が並列的に幾人か存在した可能性をふまえて追求する必要がありましょう。この棟梁問題ではまた、荘園寄進の対象(本家領家)ではなくて、寄進に当たっての媒介の役割を果たした貴族層(預所など)との接点で考える必要がありそうに思います。

安田元久氏の指摘というのは『古代末期に於ける関東武士団』(吉川弘文館:1961年)だそうです。最近では元木泰雄氏が強調されていますね。が、問題はここです。 「荘園寄進の対象(本家領家)ではなくて、寄進に当たっての媒介の役割を果たした貴族層(預所など)との接点で考える必要がありそうに思います」。 「預所など」というのは、先に述べた「荘園領主」の3階層「本家や領家」「預所」「庄司(下司)」の2段階目です。

竹内理三氏や安田元久氏ら40年以上昔の、いわば戦後日本史研究の第一世代の方達は、どうも本当に源義家が荘園の本所・領家になっていると思われています。竹内理三氏は「本所や領家」(p210-211)とはっきり書かれていますし、安田元久氏の「上級貴族達と同じように荘園領主となろうとすることは」(p119-120)も同じ意味です。義家は安田元久氏らの言うように「貴族達と同じような荘園領主になる」ことは可能だったのでしょうか。この場合の貴族とは平均的な貴族ではなく、「権門」であるはずです。

第二世代での荘園史の研究

荘園の研究史には明るくはありませんが、1990年の『争点日本の歴史4巻 中世編』(新人物往来社)での大石直正氏の論文を参考にまとめると、かつては、荘園寄進が盛んに行われるようになるのは10世紀のことで、11世紀の摂関家藤原氏は荘園をその経済基盤としていたといわれていました。 
それが(ここでは第二世代の)網野善彦氏の1969年「若狭国における荘園制の形成」や石井進 氏の1970年「院政時代」、1978年の「相武の武士団」(『鎌倉武士の実像』に収録)における太田文の詳細な研究によると、12世紀中葉以降の鳥羽・後白河院政期がもっとも盛んに立荘された時期と考えられています。その大規模荘園が乱立した12世紀以降においてさえも荘園領と国衙領は六対四程度、ほぼ半々。

石井進氏は1986年4月の『週間朝日百科 日本の歴史』第二回配本「中世TA中世の村を歩く−寺院と荘園」(現在 『中世の村を歩く』 収録)においてこう書かれています。

10世紀から11世紀前半、摂関時代の荘園はどうだったのだろうか。過去の常識的理解の通り、国土のほとんど全部は荘園で埋め尽くされてしまったのだろうか。実はそうではないのである。鎌倉時代に、国内の荘園・公領の面積などの調査結果を帳簿にまとめた太田文が今も数十ヵ国分残っている。これによると、地域的違いはあっても荘園と公領の面積比は平均六対四程度である。
「荘園が全国土をおおい、公領は錐を立てるほども残っていない」(藤原道長全盛時代の右大臣藤原実資のことば)とは、誇張もはなはだしいことがわかる。

元来太田文は、一般の荘園に対しても賦課される伊勢神宮造営の費用などの一国平均の役のために作られている。荘園がいくら増大しても一国を支配する国の役所(国衙のこと)の機能は存続しており、荘園も国から完全に独立していたわけではなかったのである。
・・・・・摂関時代の成立とともに全国土が荘園となったという従来の説には、とても従えないのである。

ちなみにこの石井進氏の『中世の村を歩く』 (朝日新聞社 2000年)のなかの「荘園とはなにか」という章は、このサイトにも登場 する坂本省三氏や、ご自身のそれまでの荘園史研究の成果を一般人向けにとても解りやすく、簡潔にまとめられています。部分修正や補強はこれからもあるにしても、これがひっくり返されることはもうないでしょう。

そもそも、その右大臣藤原実資の『小右記』1025年(万寿2)7月の記述は、一般的な情報を事実として書いたというものとはいささか趣きが異なり、藤原道長の子の能信が持っていた山城国の荘園の下役人が、主人の権威を笠に着て、国の使いとして下ってきた者に乱暴をはたらいたという事件に憤慨して書いた記述の一部です。そのなかで書かれた「天下の地、悉く一の家(摂関家のこと)の領となり、公領は立錐の地も無きか、悲しむべきの世なり」との一文は「憤慨の強調」として読むべきところでしょう。ところが明治時代からの荘園の研究の中で、この記述の一部が一人歩きしてしまったという経緯があるようです。 (永原慶二『荘園』 p35 吉川弘文館 1998年)

ただし、半々とか平均六対四程度というのは、判る範囲での全国平均で、荘園を含む地方経済の実態は時代ごとに全国均一として見る訳にはいかず、現在の研究では、「近畿型」「東国型」「西国型」と分けられています(詳しくは最近、特に1980年代以降の荘園史の専門書をご覧下さい)。その「近畿型」、つまり京周辺では、部分的には藤原実資の言うような事態は部分的には発生していたようです。
藤原実資『小右記』1025年(万寿2)7月から100年後、義家の時代よりも更に後の12世紀の話しですが、伊賀国南部の有名な名張郡では1125年の国倹目録では328町の内273町が東大寺領、公郷は30町で僅かに9%程度、更に猪田郡では同じ1125年頃の太田文によると、364町の内302町が伊勢神宮領神戸出作で、その次ぎの鳥羽上皇の中宮待賢門院の荘田が38町、摂関家の荘田は細々と5町6反、公領は1%にも満たない2町9反だったという史料があります。(1993年 岩波講座『日本通史』7巻 p13)

何町といってもピンとこないかもしれませんが、私は1町を石高にしておおよそ10石程度、農家1件ぐらいと換算しています。 

「荘園領主」には実は「本家や領家」「預所」「庄司(下司)」の3段階(この職の体系は12世紀初頭ぐらいに初めて出現するそうです)があると書きましたが、もうちょっと正確にいうと、一番上が「本家」、その下が「領家」、これは別にあるときも分かれていない場合もあります。分かれているときにはより強力な支配権を持っている方を「本所」と呼びます。名義的所有者(時には実質的にも荘園所有者)でもっとも多いのは天皇家、つまり白河院が建てた寺院、その娘の寺院など事実上天皇の親族・院宮家です。そして伊勢神宮、熊野大社、石清水八幡宮、寺院なら比叡山、興福寺、東大寺、貴族では摂関家。それらを総称して権門と呼びます。

義家の時代の同時代人、『中右記』の藤原宗忠は鳥羽院政期の1137年頃に甲斐国鎌田荘の立荘しましたが、その本家は美福門院の御願寺・歓喜光院です。つまり右大臣藤原宗忠すら、最初は摂関家に寄進することで、立荘しようとしましたが、うまくいかず、最終的には院につながる御願寺に寄進することにより、大規模荘園を成立させることが出来たのです(『院政の展開と内乱』p196 高橋一樹)。 大規模荘園は単に領主が自分の領地を寄進したのではなく、それを核にして、周囲の公領を切り取り、加納して成立させることろに意味があり、そうした大規模寄進荘園は近畿には少なく、東国と西国に集中しています。

東国などで、開拓領主を中心に見ていくと、おおまかに国衙の在庁官人を構成するグループと、その国衙に脅かされるグループに分けることができます。その後者が国衙勢から自分の領地を守る為にそうした権門に、自分達は永代その庄司となる約束で、土地を寄進し、それによって領地を国衙勢から守ろうとします。ところが地方の開拓領主風情が、国を動かすような権門と直接契約交渉がもてる訳はありません。

その両者を仲介する者が居ます。中流貴族ぐらいですが、位よりも権門に対するコネクションの強さが問題になります。鳥羽院政時代に有名なのは院近臣の藤原家成ですね。
実際の荘園領主である庄司(下司とも)を管理するのは預所です。仲介者がこの預所になったり、あるいは本所が預所を任命したりします。ケースにもよるのでしょう。また、国衙がそれを承認しなければ荘園は立荘できません。

ただし、開発領主の寄進が荘園成立の原動力かというと、それもひとつの要因ということに止まるかもしれません。これは第三世代での研究の動向になりますが、『院政の展開と内乱』収録の「中世荘園の立荘と王家・摂関家」において高橋一樹氏は、実際の寄進荘園の推進者は、開発領主ではなく、実は領家、または預所となる貴族であるという論を展開されています。

武士論の側から寄進荘園を見ると、あたかも開発領主が寄進の原動力のように見えますが、荘園の下司が荘園領主たる京の権門から派遣されたとみなせるケースも多く、このサイトでの荘園史理解すら厳密には見直さなければならないかもしれません。

が、幸いそこまで深追いしなくとも第一世代の荘園史観の問題点には影響は無いので、ここでは話しがつながる程度に単純化して書いています。荘園制は古代中世史の中でももっとも難解で、私の一番苦手なところですのであまり突っ込まないでください、これだけ書くのも冷や汗ものです。

問題は、竹内理三氏や、安田元久氏ら戦後第一世代の研究者はその一番上のランクに義家を見ていることなのです。たかだか従四位の、おまけに官物を滞納し受領功過定も通らず、以降受領にさえ成れなかった義家が、現役受領に睨みをきかせるような権門になれたでしょうか。受領功過定を通って、父頼義のように最上クラスの伊予守になっていたとしたってです。

源義家は権門の脅威か

先に引用したように、竹内理三氏は1965年『武士の登場』の中で 

諸国の百姓から田畑の寄進をうけて貴族と同じ荘園領家化することは、上皇をふくめての貴族層にとってはたえがたいことであった。

と書かれましたが、竹内理三氏より後の戦後第二世代の研究によると、11世紀の荘園は非常に不安定なものだったようです。だいたい土地を寄進しただけでは、寄進者には何のメリットも生まれません。寄進したら自動的に荘園になって免税になるわけではないのです。国守がそれを認めなければ相変わらず国衙が要求する官物(税金)を納めなければなりません。

国守がそれを荘園として認めたとしても、国免荘では受領が交代すると認定が取り消され、国衙領に戻されてしまったりします。だいたい、受領(国守)は赴任した直後は前任者の荘園認可を取り消して税金を取り立て、任期満了直前には逆に荘園を認めてその認可料を稼ぐみたいなことを繰り返しています。良い例が大庭御厨です。

福田豊彦氏の先の引用部分は、シンポジウムの議論を活性化させる狙いもあったのでしょうが、かなり挑戦的な発言になっていることから、1974年段階においてもまだ「源義家が荘園の領家」的な意見も根強く生き残っていたようです。石井進氏らの段階、更に次ぎのページでふれる田中文英氏の1977年「平家政権と山陽道」(改題して2003年『院政とその時代』に収録)などの研究を踏まえれば「そりゃありえない」となっていると思います。

以上から、安田元久氏らの「源氏の勢力が、院政当事者の抑圧策によって、その発展を阻害され」(p119-120)という現在の「通説」の原型の発想の原点は、その後の荘園史研究の進展により消滅してしまっているのではないでしょうか。

第一世代の研究は全て誤りか

しかし今だに「法皇の陰謀説」や「摂関家の陰謀説」といった上面だけが一人歩きしている感があります。それを一人歩きさせているのは竹内理三氏や安田元久氏の責任ではないでしょう。竹内理三氏や安田元久氏のような謙虚さ、真面目さ、勤勉さのない「本書き業者」が思いの外沢山居たというだけのことではないのでしょうか。

私はここで「源義家は権門の脅威」とする戦後第一世代の研究者の説は見直すべきということを中心に述べてきましたが、では戦後第一世代の研究は全て誤りなのかといえば決してそうではありません。

そもそも戦後第一世代の筆頭・石母田正氏は、1964年の『古代末期政治史序説』ですでに、源平武士団=武家の棟梁は「院の命令を執行する傭兵隊長の役割と地位−『世の固めにおわす筋』−以上のものではない」と書かれたそうです。それって、第三世代の橋昌明氏や、元木泰雄氏が旧説に抗して必死に主張されていることではないでしょうか。

石母田正氏って凄いなぁと思うと同時に、あれほど影響力のあった人がそう言っているのに、何で「法皇の陰謀説」や「摂関家の陰謀説」なんかが出てきちゃったんだろうと不思議でなりません。と同時に、私は石母田正氏の『中世的世界の形成』を読むのがいよいよ怖くなってきました。

また、「源義家は権門の脅威」、「法皇の陰謀説」や「摂関家の陰謀説」がいまだに根強い俗説としてしみとおっている背景には、摂関時代の最盛期、藤原道長の時代から荘園の全盛期に入り、摂関政治、王朝国家自体が荘園に立脚していたかのような神話が抜けきっていないことがあるのではないでしょうか。

先の藤原実資の『小右記』に見る記述もその原因のひとつなのでしょうが、しかし、現実にはそうではなかったことを検証したのは、実はここで戦後第一世代に分類している竹内理三氏なのです。

竹内理三氏は『律令制と貴族政権』(お茶の水書房 1957-58年)の中で、当時の摂関家の収入源を洗い直し、律令制に基づき、官位・官職によって与えられる封戸(ふこ)や位田、功田からの収入と、荘園からの収入を厳密に検討し、荘園からの収入は当時はまだ大きくはないこと、道長やその子・頼通らは、その経済基盤を進んで荘園に置き換えようとはしていなかったことを立証されたそうです。 (永原慶二『荘園』 p37 吉川弘文館 1998年)

その封戸(ふこ)や位田、功田の崩壊が、寄進型荘園の成立と対になっている、つまり封戸(ふこ)を権門が荘園としてその範囲(四域)を確定して直接管理することにより、不安定さを加速させていた収入源を確保しようとしたことが、荘園化の原動力のひとつでもあったといえます。ある意味で、社会経済の発展、農村の発展・変容を追う行政改革と、支配階級の自力救済の行き着いた先が荘園公領制であったということがいえるのではないでしょうか。

戦後第一世代の研究は、そうした研究の第一ステップであって、その成果の上にその後の研究が上乗せされていきます。ただ、現時点から見れば、戦後第一世代の研究の段階では、「荘園」と、「武士階級」に対する過大評価ともいえる側面があり、それは現在のわれわれが中世史を考える上で、注意しなければならない点となっていると思います。

2007.11.11-23
2008.02.02 追記