武士の発生と成立  貴族の武・小野小町の祖父小野篁

貴族の武

さて、「武」に長けていたのが武士なのか、貴族は「武」とは無縁だったのか、と言う問題について見てゆきましょう。

小野小町の祖父・小野篁

平安時代の初期、嵯峨天皇の頃の有名人で、人で小野篁(おののたかむら:802〜852)が居ます。遣隋使を務めた小野妹子の子孫です。
この人は三筆の一人小野道風、そして美人の代名詞、小野の小町の祖父に当たる人で、学者として高名だった参議岑守(みねもり)の息子の文人貴族です。21歳の時に文章生の試験に及第し、東宮学士(皇太子の先生)、巡察弾正,弾正少忠,大内記,蔵人,式部少丞,大宰少弐などを経て、837年に遣唐副使に任命されるが839年隠岐に配流。ただし、僅か1年半で許され召し返される。官暦は陸奥守、信濃守、近江守、巡察弾正、弾正少忠、刑部大輔、蔵人頭、左中弁などを歴任し、847年参議に昇進、弾正大弼を兼ね、852年に左大弁、同年病没。
古今和歌集の6首を始め、勅撰入集は計12首。 『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残し、漢詩の分野では「日本の白楽天」と呼ばれたほどの逸材だったとか。

裁判官だったことはありますが、武官だったことはありません。ところがこの小野篁は815年、13歳の頃に父岑守が陸奥の守として奥州に赴任するのに同行し、そのときおぼえた狩や弓馬に熱中して学問にあまり関心を示さず、嵯峨天皇に「学者として高名だった岑守の息子なのに」と嘆かせたとか。

その後はちゃんと学者、文人として有名になりましたが。これも貴族は「武」も備えていたひとつの例ですね。武蔵七党の猪俣党などの武士は小野篁の子孫を称しているそうです。信じはしませんが。

「今昔物語」には人でありながら冥府(死後の世界)に自由に行き来出来るばかりか、閻魔大王の次官として裁判を手伝っていた。藤原良相(よしみ:右大臣)が死にかけたとき、小野篁のとりなしで閻魔大王に許されて生き返ったと言う話が載っています。(小野篁、情によりて西三條の大臣を助けたる語)
「群書類従」の「小野系図」にも、篁の事を「閻魔第三の冥官」と記されているとか。