武士の発生と成立    在地領主と在庁官人

工事中

ここに書いていた内容はほとんど「10世紀以降の受領と国衙」に移動してしまいました。
このページは仕切り直しの工事中です。読まないでください。(笑)

在庁官人

在庁官人にも二種類に分けられると思います。ひとつはほんとうの事務・実務官吏、最初の段階の書生もそうでしょうし、 「六浦道と朝比奈切通し」で触れた相模国の内蔵武直も元は新任の相模守にスカウトされたにしても、そしてそのまま国衙に根を下ろして在庁官人の実務官僚となり、六浦にまで足場を広げていったようですが、私営田経営者、開拓領主ではありません。

もうひとつは在庁官人となった地方の豪族ですが、既に触れたように、決してただの農民が力を付けて豪族になった訳ではありません。皆無とも言えないかもしれませんが。
ほとんどは中央(京)から下ってきた国司ら王臣の子孫達、そして律令制以前は国造の家で律令制になって郡司や一宮、二宮などの神官となって生き延びた古来の豪族だと思います。

歴史上良く知られる開拓領主達が在庁官人であった例としては、相模国の三浦大介義明、上総権介常澄、下総国の千葉介常胤、その子千葉介常胤、そして常陸大掾氏 。権介、常陸では大掾の地位を世襲しています。

前九年の役の権守藤原説貞、藤原経清も陸奥守藤原登任の郎党(堪能武者)として中央から下ったにしても藤原登任解任後もとどまり、そもそも亘理郡?に領地を持ち、安部氏と姻戚関係を持ち、安部氏側に寝返ったあとも、有名な「赤符」「白符」の話など、陸奥国衙の納税ネットワークにおいて重要なポジションにいたと想像されますので、その時点では在庁官人とみなしても良いでしょう。

在庁官人の官職世襲

ただし、武士論の上において特徴的なのは在庁官人が受領に対する次官の肩書きである権介、や大掾の官職を世襲しだすことでしょう。権介を名乗る一族の長の嫡男が「新介」とか呼ばれたりしています。例えば『続群書類従』 第六輯上 系図部 p159収録の「千葉系図」には上総権介平広常の嫡男は「小権介良常」と書かれるとか。

国司四等官ではないのですから朝廷の除目で任命される訳はありません。この点は現時点では私にはさっぱり判りません。

ただ言えることは、上総権介など国名を付けた場合じはその一族がその国の主だったところをほとんど支配しているようです。一方、千葉介の同格の介ですが、国全体に勢力を広げて居るわけではなく、相馬郡を中心としたエリアがその勢力範囲であり、郡司を兼ねています。と言うか、名前はともかく、実質郡司です。

もちろんこれは郡司だから相馬郡を支配した訳ではなくてその逆、相馬郡のほとんどを支配していたから国衙・受領に対して相馬郡を代表して租税を納める立場=郡司と言う職を兼ねていたと言うようなものでしょう。今の会社でも部長や課長に二種類あって、本当に部を統括する部長と肩書き・対外呼称は部長だけど、ラインの部長の部下で仕事はラインの課長なんて場合が多々あります。そんなもんなんですかね。そうすると下総国には権介を名乗る在地領主が他にも居てもおかしくは無いですね。

また網野善彦氏は京都府福知山の桐村家に伝わる「大中臣氏略系図」のなかに、常陸国北部の那珂湊を本拠として上総国衙にも進出し、何らかのポストを持っていた上総介頼継(権介)の孫、上総中五実経(上総権介の家、大中臣の五郎ぐらいの意味?)が、1157年に保元の乱の戦功により源義朝から「相州六連庄を賜る云々」と書かれているのをで見つけたそうです。

その系図がいつ造られたものかは判りませんが、本当だとしたら上総権介は2人以上居たことになります。まあ「介」ではなくて定員の無い「権介」ですから何人いても良いのでしょうが。

三浦大介は三浦義明からで、伝承を含む系図でもその前は三浦庄司です。ただ、三浦氏の勢力範囲は三浦郡だけではありません。正確には所在不明の相模国衙周辺、すなわち相模国の中央西寄りに大きな支配地を持ち、そちらに一族を分散させてかつ、西側の有力者と婚姻関係を持っています。国衙の実務を統括する立場と解しても良いのかもしれません。

もう一度「国衙・在庁官人」と「国司館」

中央での官職を持たず、国衙での官職を世襲する段階になるともはや「土着」と言うことに何のためらいもありません。

  1. この段階では国(相模国とか上総国とかですが)の地方行政、神社仏閣の維持管理、行事、道路や橋の補修その他の実際の行政、地方公共事業(つまり「尾張国郡司百姓等解」で尾張守藤原元命がやらなかったと在庁官人・百姓が訴えたこと)はその国の有力者が国衙に集まって処理し
  2. 国内行政なんて国司にとっては厄介な仕事を自分達でやってやることで国司とも折り合いを付け、顔つなぎもし、自分が攻撃対象にならないようにする
  3. 受領(国司)やその目代(代官)はその国から朝廷に納めるべき租税(+国司とその郎党の取り分含む)などの徴税、官物確保が仕事
  4. その国司館に官物(租税)を納めるのが国衙に集まる在庁官人でもある在地の領主達
  5. そしてその在地の領主間で国司館に納める租税の分担調製を国衙に集まる在庁官人としてそれら在地の領主同士で行う

と考える事も出来るのではないでしょうか。在庁官人とは地方行政・行事の担い手でありまた国司に対しては国人の顔だと。国人からすればしかるべき官物(租税)を納めなければ朝廷から犯罪者として追討される、それこそ前九年の役平忠常の乱の様に。

どうぜ国に割り当てられた官物は大昔、9世紀頃の「倭名類聚鈔」にから変わっていない。不作でも無い限りその程度はさっさと渡して4年の任期満了でおとなしく帰ってもらった方が良い。まあ多少は色を付けて国司の取り分を増やしてやれば面倒なことは起こさないだろう。地方行政や自分達の在地支配にもいちゃもんは付けないだろうと。

だいぶ乱暴なまとめ方だし、やっかいな荘園の問題はここでは避けていますが。こうした折り合いがついているうちはまあ地方行政も平穏、そしてたいていは平穏なのでしょう。

そして、在庁官人どうしで分担をし、国司館側との折り合いも付けて、約束した官物を納める代わりに、俺の領地には口出しするな、介入するな、お前ら余所者に介入されないようにちゃんと約束した官物を納めてやるんだから、と言うのが「不入権」なんじゃないでしょうか。

京武者の地方居住形態(工事中)

平安時代の武士=「兵(つわもの)の家」には、京武者、軍事貴族(受領層)、土着した国衙の在庁官人とに大雑把にに分類出来るのですが、高橋昌明氏の『清盛以前−伊勢平氏の興隆』にはこうあります。

平氏の伊勢居住の理由がなんであれ、それをいわゆる「土着」と単純に理解してはならない。
九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。(p13〜14)

そういう意味で京武者は全て「領地」をもっています。例えば平安の歌人−西行法師は23歳で出家するまでは佐藤義清(のりきよ)よ言う北面の武士でその曽祖父は山内首藤氏の祖でもある藤原公清でおそらくこちらが本家でしょう。紀伊国田仲庄を私領とし、これを大徳寺に荘園として寄進し、預所を行っていました。どちらが本宅かは微妙ですね。それは4:6のどちらが京でどちらが荘家かと言うぐらいです。その側近郎党の多くは荘家の方を生活基盤としていたでしょう。後世の大名の江戸家老とか交代の江戸屋敷詰めみたいな者は居たでしょうが。

藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月の記事に、平貞盛の子下野守平維衡と散位平致頼(平良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦が載っています。

中世の説話集「十訓抄」に優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼・平維衡が並んで挙げられ、この四人がもし、互いに相争うのならば必ず命を失うはずと。その2人が争った訳です。

当時右大弁だった藤原行成が藤原道長に相談した政務上の問題のひとつで、行成は道長に、伊勢神宮司と国司に命じて二人を京に追い上らせるべきだ、と言上。朝廷は二人に召喚状を出し検非違使の庁に出頭させ詰問。合戦で有利だった致頼は非を認めず一方維衡は過状(詫び状)を提出します。

その結果、長保元年(999年)十二月、致頼が官位をはく奪されて隠岐に流されたのに対し、維衡は位をそのままに淡路への移配。間もなく許されて京に戻り、その三年後には致頼も召還されて元の五位に復しますが。

『今昔物語集』によると、伊勢国で武芸を競い合っていた両者を中傷する者がいたことから合戦が始まったとか、そんな単純なものではないでしょう。この両流の抗争はその子の代まで争われます。

高橋昌明氏の「清盛以前−伊勢平氏の興隆」には平貞盛流の維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。

これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。
国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。それゆえ地方豪族の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レベルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だったと思う。
ために問題の解決はおくれ、結局紛争は長期化せざるをえなくなる。維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないにしても、右のことはそのままあてはまる。
 維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。(p30)

長徳四年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上、長元年間の事件を最後としている。和解が成立したと考えるのは非現実的で、なお一定期間対決が継続されたことと思う。現存諸記録は黙して語らないが、この対決の結果を思い描くのは、さして困難ではない。致経の子孫たちが、その後伊勢より姿を消しているからである。
おそらく彼らは年来の仇敵である維衡の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。いずれにせよ、伊勢平氏を称するようになるのは、維衡流であって致頼流ではない。この素朴だが動かし難い事実こそ、なによりも両者の対決の結果をさし示すものである。p33)

彼らは土着した訳ではありません。基本的には京武者です。しかし互いに伊勢に領地を持ち、対抗勢力(たとえ同族であっても)と抗争を繰り返し、相手を駆逐してその地盤を固めようとしています。

ここまで見てくると、平安時代の武士=「兵(つわもの)の家」にも、京武者、軍事貴族(受領層)、国衙の在庁官人と種類が有ること、しかしその境目は極めて曖昧であることが判ります。

その境目は京での栄達が可能であったか、実際にそれがなしえたのかではないでしょうか。源義国もそうですが、京に勤務しながら子達を荘家周辺に配置して勢力を伸ばそうとしていきます。