兵の家各流・平氏     鎮西平氏

平為賢

肥前国彼杵郡の伊佐・福田などの諸氏は、貞盛流で刀伊入寇の際に活躍した平為賢(常陸大掾維幹の子)の流れ。 桓武平氏概観

一般に言われているのはこうです。

1019年には平為賢(ためたか)が刀伊の乱を治めて名を上げました。この一族に九州総追捕使を務めた伊佐平次(伊作平次)がいて、その子孫から川辺氏、頴娃氏、給黎(きいれ)氏、薩摩氏、別府氏、揖宿(いぶすき)氏、知覧氏、阿多氏など、今日の鹿児島の地名に残る薩摩武士の一族が派生しました。鹿児島の歴史探訪シリーズ3

平季基

素性は諸説有って解りません。はっきりしているのは 島津荘を立荘したこと。

中央公論社版『日本の歴史』第六巻東大資料編纂所長竹内理三教授

 ― 治安(じあん)三年(1023)大宰大弐に任命されて、六十三歳の老齢ではるばる大宰府に赴任した藤原惟憲(これのり)というものがあった。かれは七年間も在任したが、その間、不正行為のかぎりをつくして私腹をこやし、とくに貿易でははなはだしかった。在任中、かれは蔵人(くらんど)所(どころ)の名を偽称して大陸の商人の唐物を召し上げ、あるいは某不正事件に関係した平季基から、絹三千余疋の賄賂を強請して不問に付するなどは、その氷山の一角であった。この平季基も大宰府の役人であった。私貿易を行って唐物を道長におくっており、全国一の大荘園に発展した島津荘の開発領主となった人物である。

大谷学報に「鎮西島津の庄」を発表した徳重浅吉教授

万寿四年(1027)九月四日付の大宰府の解文(げぷみ)が「類聚符宣抄」に収めてあって、そこに従五位下行大監平朝臣季基という署名があり、その次に、同じく従五位下行大監平朝臣成信の署名が並んでいる。大弐は惟憲である。・・・万寿の解文に、署名を残している両大監の季基と成信であるが、この二人の名は平氏系図に見出すことはできない。もちろん二人の血縁関係も不明である。しかし、この二人の名に共通した季信という名が平氏系図に載っている。この季信は、出羽守に任ぜられていた人で、その娘には、歌人として知られる出羽の弁があり、大宰大弐から参議となった親信は、季信にとっては弟に当たる。親信の子には孝義があり、藤原道長に対立した藤原伊周(これちか)を密告して、長徳二年(996)に従五位上に昇進している。この孝義と、大監の季基と成信とは、ほぼ同世代の人と見当づけられるし、季信も、万寿のころにはまだ在世していた。季信や親信の父は伊勢守であった真材(まさき)であり、その祖は高棟(たかむね)王につながっているから、同じ葛原親王から出た桓武平氏であっても、高望(たかもち)王の流れを引く平清盛とは別系の平氏である。しかし、後に清盛の室となる時子は、親信から六世の孫に当たる。
  そこで徳重教授の考察であるが、平季基は親信の兄の出羽守季信と、世代年齢とその名前から推して、極めて近親者であったろうという結論である。不確定な事実を学者は明言しないもので、おそらくは親子か弟、一歩ゆずって甥あたりとみているのであろうか、いずれにしても、伊勢守真材の子か孫とすれば、季基が伊勢神宮を島津荘に勧請して、神柱神社を建てたことにも関連が生じてくる。季基には良宗という弟があり、子に兼輔があったことまでは知られているが、出自系譜については、以上のことまでしか追究できない。季基が時の最高権力者道長に近づけたのも、その妹か姪であった出羽の弁の仲介を想定して、ここに筋が通ってくる。

島津の荘

薩摩・大隈・日向には平安時代の末期、貴族領の島津荘と寺社領の正八幡宮領の二大荘園がありました。
島津荘の起源は、後一条天皇の万寿年間(1024〜1027年)、大宰府の大監(だいげん・上位の判官)・平季基と弟の平判官良宗が日向国諸県郡(もろがたごおり)島津院の荒地を開いて関白・藤原頼道に寄進したことに始まります。・・・藤原頼道の系統は鎌倉時代になると五摂家に分かれ、長子は代々近衛家を継ぎ、島津荘は近衛家所領として伝えられました。藤原頼道は絶大な権力を誇った道長の長男です。

十世紀中葉頃の高名な武士で、安和二年(969)の変に際して謀反党類として追討をうけ越後に配流となった平貞時*1(伊作平二貞時。『二中歴』には胆沢平二貞時と記)の孫、島津荘の設立者で従五位下大宰大監たる平季基 薩摩の岩元氏の系図

伊作平次貞時(平良持(良将)の子か)の流れも鎮西に繁衍し、その子大宰大監貞基(一に良元)の子が平季基で万寿年間、島津荘を開発しており、その流れに、薩摩南部に繁衍した伊作平氏や同国出水郡の莫禰一族等がある。伊作平氏としては、薩摩の川辺〔河辺〕、・・・阿多、・・・、一族きわめて多し。
季基の弟良宗の後に、大隅国肝属郡姶良庄の姶良、得丸、牧山、末次などの一族があった。
刀伊入寇時に活躍した大宰少弐平致行(宗行)も貞時の孫で、この流れには薩摩の山門院〔山門〕・市来崎・木上、日向国諸県郡の救二院・安楽・串間、筑後国三瀦郡の諸富などの諸氏があり、大隅の帖佐・平田も平致行の流れに出たとみられる。 桓武平氏概観

 

平直澄(真澄?)

肥前国藤津荘の荘司
元永2年(1119)、鎮西で反乱。12月、正盛の郎等により、鎮圧・斬首。

平家人物辞典 

阿多忠景

鹿児島の歴史探訪シリーズ3

源氏の嫡流・源為義(八幡太郎義家の孫)の第8子・為朝は13才で豊後(大分県)に追われ、後に九州総追捕使(警察・治安維持の長官)であるとして鎮西八郎と称しました。薩摩国の鎮西平氏・阿多平四郎忠景は為朝の家人となり、薩摩国阿多郡の郡司・薩摩権守に任ぜられて薩摩平家の惣領となって、多いに威勢をあげました。