兵の家各流    源満仲と安和の変、花山天皇

源満仲

生没年と官位

生没年:912-997 ただし満仲は実母も確定しておらず、経基の子ではないという説さえある。

  • 春宮帯刀
  • 960 (961とも)平将門の子が入京するとの噂 この前かこのとき、武蔵権守(『扶桑略記』応和元年、つまりこの翌年の5月10日条に前武蔵権守と)
  • 965 (康保2)叙爵がいつか不明ながらこの時点で従五位下(『平安遺文』1161号)
  • 967 村上天皇崩御のとき藤原千晴とともに固伊勢使(近畿への関を閉鎖し守備に当たる)に任命されたが病気を理由に辞退
  • 969 安和の変のとき左馬助 (左馬権助?)
  • 左馬権頭
  • 春宮亮
  • 伊予守 (多分違うでしょう)
  • 982(天元5)常陸介 (「小右記」3月5日条)
  • 983 摂津守
  • 武蔵守
  • 美濃守
  • 信濃守
  • 下野守
  • 陸奥守
  • 従四位下鎮守府将軍
  • 986 藤原兼家、道兼の父子が起こした花山天皇出家事件では、山科の元慶寺まで邪魔が入らないように頼光や郎党を従えて警護
  • 986 出家

満仲が確かな史料に初めて登場するのは49歳のときであり、それ以前の事を記す史料は無い。史料に初めて登場したのは天徳5年(961)に平将門の子が入京するとの噂が広がったときである。将門は天慶3年(940)に討たれているが、将門に同情する者も多く、治安部隊である検非違使だけでは力不足と判断した朝廷は、武芸にすぐれた兵(つわもの)を集めた。
また満仲は平将門の子の顔を知っているからと言うことだったと思う、蔵人頭に命じられて捜査に参加。おそらくは源経基が武蔵介だったときに一緒に下っていたのだろう。

満仲の出家は花山天皇出家事件の年、986年です。誰もそんなことは言っていませんが、自分も手を貸した陰謀の犠牲者花山天皇の出家に殉じたのかもしれません。

安和の変

安和2年(969)3月25日、左馬(権?)助源満仲57歳のとき、前武蔵介藤原善時とともに中務少輔(しょう)橘繁延と左兵衛大尉(だいじょう)源連(つらなる:この名からおそらく嵯峨源氏?)が謀反を企てていると密告。これが安和の変の始まりである。

これを受けてただちに右大臣藤原師尹以下の公卿(参議以上)が参内、宮中の諸門を閉じ、検非違使が橘繁延と源連を逮捕。また源満仲の弟の検非違使源満季は藤原秀郷の嫡男で源満仲のライバル藤原千晴とその子久頼と郎党を捕らえて獄へ。

翌26日、左大臣源高明宅が検非違使によって包囲され、天皇を廃しようと企んだ罪により太宰府に流すとの宣命が大声で読み上げられた。
4月に入ると1日に源高明宅がなぜか全焼、その後、藤原千晴は隠岐国へ流配、合わせて藤原秀郷流の本拠地下野国に藤原秀郷の子孫に教諭を加えよよの指令が出された。(坂本p198)

源高明は臣籍に下った醍醐天皇の皇子であり、兄弟でもある村上天皇の親任も厚く、村上天皇と藤原安子(あんし)との間に生まれた3人の皇子の2番目、為平親王の后に源高明の娘を選び、その結婚式(966)を慣例を破って内裏の昭陽舎で行ったことが、常に天皇の外戚でありたい藤原氏を刺激し、村上天皇の3人の皇子の長男で精神障害らしき冷泉天皇が即位(967)すると、その東宮には源高明の婿の為平親王をさしおいてその下の守平親王を立て、そしてこの安和の変は更に源高明の完全失脚を狙った陰謀でした。

本当の黒幕は藤原師尹と源高明の舅、村上天皇の中宮安子の父であった藤原師輔の子、伊尹(これただ)、兼家達です。

「蜻蛉日記」の著者はその黒幕の一人、藤原兼家の妻で道綱の母ですが「蜻蛉日記」の中でこのときの都の様子を述べながら源高明に同情しているそうです。「蜻蛉日記」は持っているのですがまだ読んでいません。

ちなみに為平親王(具平親王とも)の子孫は村上源氏となり公家社会では明治の大政奉還までかなりの勢力を維持していきます。「とわずがたり」の著者二条も、岩倉具視も久我美子もこの村上源氏です。

 

寛和2(986)年に藤原兼家、道兼の父子が起こした花山天皇出家事件では、鴨川の堤にさしかかったあたりから山科の元慶寺まで邪魔が入らないように郎党を従えて警護したと。(坂本p210)

この事件では『大鏡』に安部晴明との逸話も。

さて道兼公がこうして天皇を連れ出し東の方へと案内していったが安倍晴明の家の前を通るとき、晴明の声が中からして、大きく手を叩く音が聞こえる。
「帝が退位なさるとの天変があったが、もうすでに現実のものとなってしまったらしい。参内して奏上しよう。車の支度をせよ」
そう言っている声が聞こえる。その声を聞いたとき、天皇はあらためて感無量に思ったことだろう。
「とりあえず、式神が一人、内裏へ参れ」
晴明が命じると、目にみえないものが晴明の家の戸を開けて出てきたが、天皇の後ろ姿を見たのだろうか
「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」
と答える声がした・・・

 保坂弘司 『大鏡 全現代語訳』 講談社学術文庫

 

摂関家の荘園である摂津国多田荘の荘園警備の任務を預りながら付近を干拓・開発して拠点とました。12世紀の『今昔物語』には満仲が何度の登場するが、そこに描かれた武士団の長のイメージは『今昔物語』が書かれた12世紀の初めのものではないかと言われています。

源満仲には歴史上名を残す子が3人います。

嫡男:源頼光 (摂津多田源氏美濃源氏

このサイトでは整理の都合上、源頼光の流れを摂津多田源氏とまとめます。
摂津も多田も源満仲からなのですが。後に摂津源氏と多田源氏に別れますが派閥?としてはひとまとまりと見なしても良いと思います。それよりも美濃源氏に注目した方が平安末期を理解する上で良いと思います。

次男:源頼親 (大和源氏

大和源氏の流れですが早い時期に歴史の表舞台からは姿を消し、源氏庶流としてたまに顔を出します。

3男:源頼信 (河内源氏

良く知られる「清和源氏」がこの源頼信から始まりますが、より正確に河内源氏としてここではまとめます。

参考

坂本賞三著 『摂関時代』 小学館版 「日本の歴史」全32巻 中6巻
摂津源氏  多田満仲と多田御家人  清和源氏(摂津源氏) 鎌倉史人物紹介
多田神社その1  多田神社その2  多田満中について