兵の家各流・源氏    摂津多田源氏

源頼光 

確かに986年の花山天皇出家事件では天皇の山科行き警護(実際には護送?)や、996年の藤原伊周・隆家の左遷(長徳の変:クーデター?)時に内裏を警護したりもし、後の世では伝承の世界では四天王を引きつれ数々の鬼退治伝説で知られ、「朝家の守護」「朝家の爪牙」として語られます。

しかし実際の人生は備前、美濃、但馬、伊予などの大国の守となってもほとんどは任国には行かず、春宮(権)大進、東宮権亮、内蔵頭として三条天皇の皇太子時代から側近くに仕えています。特筆すべきは源頼光が迎えた婿の一人には道長の兄、右大将・大納言藤原道綱がいます。藤原道綱は藤原兼家と『蜻蛉日記』の著者(藤原倫寧(ともやす)の娘)の間に生まれています。当時は婿が嫁の家に住んだので右大将藤原道綱は頼光の家に住んでいました。その一条西洞院の邸宅は藤原道綱の母方の祖父藤原倫寧の家だったものを頼光が購入したものらしいですが。

  • 954年7月24日生まれ、(「系図纂要」による)
  •  清和源氏(摂津源氏) には970 摂津守 とあるが根拠不明、かつ不自然
  • 980年(天元3年) 文献初見「小記目録」(藤原実質の「小右記」の要約)3月19日条
    「乱闘等」「頼光等召名宣旨事」詳細不明
  • 986年 安倍晴明 泰山府君の祭を行う
    花山天皇 出家(源満仲・頼光 山科行き警護する)
    一条天皇 即位、源満仲 出家 
  • 988年(永延2) 春宮(権)大進、藤原兼家の二条京極第新築に際し馬30頭贈る「日本紀略」9月16日条
    藤原保輔 獄死 
  • 990年  <大江山討伐> 大江山の鬼伝説
    藤原兼家(62) 出家 没、藤原道隆 関白となる 
  • 992年(正歴3)  源頼光 備前守・春宮権大進兼任  「小右記」1月20日条。ただし『北山抄』には備前介。
    介であっても国務をあずかる受領であったので「小右記」は「守」と記したのであろう。
  • 993年  源頼光 殿上賭弓に参加
    疱瘡流行により大赦、菅原道真に太政大臣を追贈 
  • 994年  源頼光・頼信兄弟 盗賊捜索に従事、疫病都に蔓延 
  • 995年  春 源頼光一条邸を藤原長能が訪問
  • 藤原道隆(43)・道兼(35)・道綱母(不詳) 没 
  • 996年  源頼光・頼親ら藤原伊周・隆家の左遷(長徳の変:クーデター?)時に内裏を警護
    「陸奥国前守(平貞盛の子)維叙、左衛門尉維時(平直方父)備前前司頼光、周防前司頼親(大和源氏:頼光弟)など云う人々、皆これ(源)満仲、(平)貞盛子孫也」 「栄花物語」(巻五・浦々の別)
  • 997年  源満仲(85) 亡
  • 1001年 当時美濃守、尾張守大江匡衛に書簡(「本朝文粋」)
  • 1004年(寛弘1) 春宮大進(権が取れる)「御堂関白紀」4月20日条
  • 1008年 『権記』に「前但馬守」実際に赴任したのかこのときの連歌が「金葉和歌集」に残っている。
    「殿上人、四品」
  • 1010年  藤原道長 法華三十講(源頼光 非時などを奉仕)
    修繕講 源頼光邸で行われる
  • 1011年 正四位下 「権記」10月19日条
    東宮権亮(東宮は居貞親王、後の後三条天皇) 「権記」4月18日条 東宮使として賀茂祭に参加 
  • 1014年 内蔵頭として賀茂祭に参加「小右記」4月18日条
  • 1016年 藤原道長宅炎上、当時美濃守
  • 1018年 藤原道長の土御門邸新増築に際し伊予守頼光「家中の雑具をことごとく献じ」:「御堂関白紀」6月28日条
  • 1020? 摂津守
  • 1021年 7月19日没(「左経記)

参考:「平安史実」 
「源頼光−摂関期の軍事貴族」(近藤好和) 
「源満仲・頼光」元木泰雄著

土蜘蛛(つちぐも) 

京都魔界往来  清和源氏(摂津源氏)

源頼家

父:源頼光 蔵人 筑前守

源頼国

蔵人 1011 従五位下 1018 従四位下 1019 従四位上
参考: 清和源氏(摂津源氏)

源頼綱

生没年:1025-1097

蔵人 従四位下

源明国(行光)

(従四下、下野守)
参考: 暁雨堂古代史研究室

国直 (号 山県三郎:美濃三郎)

住美濃国山県郡、出家、配流安芸国 出典:尊卑分脈) 
我が家の母方のご先祖様?は源三位頼政ではなくてその叔父さんだったようです。なんせ40年前に高校の図書館で調べた記憶によると江戸時代の武士で山県、山形の名を持つ家の大半はこの山県三郎国直が祖先と言うことになっています。江戸時代の系図屋さんは「尊卑分脈」をネタ本に使って系図を作っていたのでしょう。

それはともかく、曽孫に源頼清と言うのがいるが、これがもしかして「天養記」に「而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明(三浦義明のこと) 、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。」と出てくる義朝と結託して大庭御厨に攻め入った源頼清だろうか?

源頼綱

蔵人 従四位下

源仲政

下野守 兵庫頭 従四位下

源頼政

(蔵人〜兵庫頭、従四位上、従三位非参議)
美福門院・八条院に出仕。娘、二条天皇女房讃岐

  • 長治元年(1104)誕生
  • 白河院判官代
  • 保延2年(1136)4月蔵人
  • 1136年6月従五位下
  • 近衛天皇を悩ます鵺を退治
  • 仁平3年(1153)美福門院昇殿
  • 1155年兵庫頭
  • 保元の乱(1156)で後白河天皇方
  • 1158年二条即位日に禁中乱入犯人を捕らえた功で、後白河院昇殿
  • 1159年(平治元)1月、従五位上
  • 12月、平治の乱で藤原信頼方→後白河院政派
  • 1166年12月、正五位下・内昇殿許可
  • 1170年右京権大夫・従四位上
  • 1171正四位下
  • 1176息子仲綱を正五位下に申請の為辞職
  • 1178年2月、従三位・非参議
  • 1179年11月、出家
  • 1180年似仁王と挙兵 5/25、宇治の合戦敗戦で平等院で自害
    和歌『源三位頼政集』

源明国

 1111年11月 主君藤原忠実の命令で美濃の荘園に下向した際、源為義の郎党らと乱闘を起こし殺人(「院政の展開と内乱」元木泰雄p47)

源頼憲

(1147非蔵人,昇殿。1150解官。五位。)
藤原頼長の勾当。保元元年(1156)保元の乱で斬首(平治元年(1159)平治の乱に参戦説有り) 子盛綱。

多田行綱

(保元3年時正五位下。伯耆守。蔵人)

  • 治承元年(1177)5/29、鹿ヶ谷事件の陰謀を平清盛に知らせる1183年7月
  • 平家都落ちの時、反平家へ
  • 11/19、法住寺殿ノ合戦後白河方で源義仲軍に敗戦
  • 1184年一ノ谷の合戦に源氏軍に参戦
    参考:清和源氏人物辞典

源仲綱

(正五位下 、隠岐守 、伊豆守)  
参考:

源広綱

(1184 駿河守) 
この駿河守源広綱が何者だか解らなかったのですが、やっと解りました。
参考: