奈良平安期の寺社     荏柄天神社

荏柄天神社の祀神

学問の神様、菅原道真公を祀るお社で、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三天神の一つに数えられるんだそうです。
菅公は藤原氏との政争に敗れて左遷され太宰府で死んだんですが。藤原氏はその菅公の恨みを恐れて雷が鳴ると「ひえ〜呪いじゃ〜」と右往左往し「お静まり下され〜」と北野天満宮を建てて菅公を祭ったんですね。まあ封印したと言っても良いかもしれない。

荏柄天神社の由来

でそれが何で鎌倉に? と言うとなんでも1104年(長治1年)に雷雨と共にここに雷が落ちたらしいです。そんで「お静まり下さいませ〜!」と天神様(菅公)を祭ったと。

もうちょっと真面目に書きますと、長知元年8月、雷雨とともに雲に乗り、怒りの表情をした黒色の束帯姿の天神画像が落ちてきたと。里人はこれを恐れ、相模国衙が国解(報告書)を堀河天皇に上奏し、その地に瑞離(しきみずがき)を構え、社を建てて画像を崇収したことに始まると鎌倉国宝館の「特別展 荏柄天神社 九百年」と言う小冊子に書いてあります。 「国衙が国解」までは書いていないですがそういうことです。これは信じて良いでしょう。

もっとも天神画像が落ちてきたと言うのは良く判りませんが。(笑)
ただ、雲に乗る菅公の絵はこの言い伝えから始まっているそうです。その絵で荏柄天神社に現存するものは桃山時代のものらしいのですが、彫刻は鎌倉時代のものが二体ありうちひとつは1261年。像内背面の墨書銘から、これを作った時の神主は平政泰、後嵯峨上皇に仕えた北面の武士で宗尊親王が確か六代征夷大将軍となって下向して来たときにお供をしてきたのではないかと。この時代にしてはかなりはっきりしていますね。

1180年に頼朝が鎌倉に入り、大蔵に館を築いたときにはこの荏柄天神社を鬼門の守りとしたとか。吾妻鏡にも多くの記録が残されています。有りすぎて省略、(笑)

こちらが山門?から外を見たところ、長い階段があります。しっかしも〜、君達ええかげんにしなさい!フキフキ "A^^;
そうそう、家の娘は私から800円せびって「Nコンの選抜にでられますように」と願文を書いていたので 「学問の神様なんで、音楽には関係無いと思うぞ。」(苦笑)
と思ったのですが、う〜ん、御利益が有ったようです。霊験イヤチコなんですね〜。(笑)

荏柄天神社の梅

こちらは梅の頃、え〜と、2月20日ですね。菅公と言えば梅ですね。家紋が梅だと「我が家の祖先は菅原道真公に違いなし」とか言われます。ちなみに我が家は家紋が藤だから藤原氏だろうとか。(笑)

荏柄天神社のお社については?

このお社は三間社流造りと言う様式だそうで、綺麗な朱で塗ってあるのでなんか新しそうですが、実は鶴ヶ岡八幡の若宮よりも常に古いんです。何故かと言うと、1622年の鶴ヶ岡八幡の造営のとき、古い若宮を貰い受け、こちらに移築して社殿としたそうです。鶴ヶ岡八幡の若宮は鎌倉時代末期の1315年に消失して翌年再建、以来大修理を行いながら1621年まで続いていますから、こちらの本殿は鎌倉時代のものと言って言えなくはありません。

荏柄天神社の桜

しかし桜も良かったですよ。

ちなみに門を入って右側に大きな銀杏の木が有るんですが、ここに束帯姿の天神画像が落ちてきたと。それで村人がそこを踏まないようにと銀杏を植えたんだそうです。ほんとかね?(笑)

荏柄天神社と関取場

ところでこの近くの関取場と言われる関所があったのですが、そこは戦国時代の後北条氏がこの荏柄天神社保護(収入)の為に作ったものらしいです。私はそれを小学生に教えてもらいました。


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