奈良平安期の寺社     元八幡宮

元八幡宮

何処にあるのか判らなかった元八幡宮をやっと見つけました。
この辺のはずだと自転車で路地裏を走り回ったのですが、最後は道を歩いている奥さんに声を掛けて教えてもらいました。そうしたら「あそこにバス停が見えるでしょ、あそこを左」と言われたバス停はなんと「元八幡宮前」でした。ガーン!

おちついてもう一度トレースしてみたら、なんと辻薬師堂から踏切を渡ってすぐに、こんな道標が、しかし1/3ぐらい埋まっています。判らんてこれじゃ〜。(;^_^A アセアセ…


ここはこれで十分でしょう。「吾妻鏡」です。

治承四年「庚子」(1180)十月小十二日辛卯 快リ。
尅、祖宗を祟らん爲、小林郷之北山を點じ、宮廟を搆へ鶴岡宮於此の所に遷し奉被る。專光坊を以て暫く別當?と爲す。景義宮寺の事を執行令む。武衛、此の間潔齋し給ふ。・・・ 
本社者 後冷泉院の御宇、伊与守源朝臣頼義 勅定を奉り、安倍貞任を征伐之時、丹祈之旨有りて、康平六年秋八月潜に石清水を勸請し瑞籬於當國由比郷「今之を下若宮と號す」に建る。永保元年二月陸奥守同じき朝臣義家修復を加う。・・・

えっ、だめ? では少々

康平6年(1063)に源氏の氏神である京都・岩清水八幡宮を勧請したて祀ったところです。その後八幡太郎義家が修復。
源頼朝が鎌倉入りは、今から約800年以上前の1180年(治承4)10月6日です。
翌日の7日には、源頼義が建立し、源義家が修理をした「鶴岡八幡宮」(現在の元八幡宮)を参拝し、次に父親の義朝が住んでいた亀ヶ谷の館跡(寿福寺)を尋ねました。
当初、亀ヶ谷に館を構えるつもりでしたが、それを止め大蔵に定めます。鎌倉入りから6日後の10月12日に八幡宮を材木座より小林郷の北山(現在の場所)に遷し、それを中心に鎌倉の町を作って行きます。自分の館を中心とするのではなく、当時はほんの小さな社だったはずのこの由比若宮を自分の構想の鎌倉の中心に据えるところが、当時の頼朝の立場を伺い知ることが出来ます。また頼朝はそういう立場を冷静に分析し、板東武者の精神的支柱を立て自分がそれと一体化する、それが言い過ぎであればそれに一番近いものであることを示すことによって自分の立場をも強化しようとします。それが頼朝でなく義経であったらすぐに崩壊して1199年まで生き延びられることは無かったでしょう。と私は思います。

あえて言いますが、義経はバカです。頼朝は自分の立っているところを知っていました。後に頼朝に暗殺された上総介広常には理解出来ずに「何でそんなに官位なんかに拘るんだ」と言われましたが、それは上総介広常は大げさにせよ2万もの軍勢を率いる自分の手で掴み取った実力を備えていたからです。当時では他のご家人が束になっても(絶対になれなかったですが)上総介広常には及ばなかったでしょう。


その元八幡のすぐ傍に石清水の井が、
石清水八幡の関係で謂われでもあるのかと思いましたが、判りません。


これが冒頭のバス停を左に曲がる路地の入り口。ここ最初に通ったんだけどね〜、
見落とした。フキフキ "A^^;

 

リンク