鎌倉七口切通し     大仏坂切通し

ここは如何にも古道と言う趣が有って好きなところです。私はアプローチが自転車なので最初はそのまま担いで行きましたが、2度目からは入口に自転車を置いて、徒歩で往復しています。歩いて往復してもそれほど時間はかからない距離です。


本日のお散歩・大仏切通し 04.05.09

大仏切通しの歴史

この大仏切通しの歴史ですが、朝比奈、亀ケ谷坂、巨福呂坂の切通しと同じ年代頃と言う説もありますが、それはそれら記録に出てくる他の切通しと多分ここも同じ頃に、という想像の域を出るものではありません。
「道(山道)」と言うならほぼ確実に平安時代後期までには有ったでしょう。切通しと言うなら早くても鎌倉時代の末期ではないでしょうか。朝比奈、亀ケ谷坂、巨福呂坂の切通しと同じ年代と言うことは無いと思います。

文献上の初出は「新編鎌倉志」でそこに鎌倉七口として初めて登場しました。「新編鎌倉志」は江戸時代初期に水戸光圀が編纂させた鎌倉のガイドブックで、鎌倉七口や鎌倉十橋などはこの「新編鎌倉志」によって選定されたものです。

その「新編鎌倉志」にはここ大仏切通しは「古へは深沢切通とも唱へけるといえり」とあり、ここで「切通し」とあるので、江戸初期までにはそう言えるものがあったと言うことになります。

2005_12230177.jpg

現在の大仏坂切通しは如何にも古道らしい、鎌倉時代にあってもおかしくないような趣があり、私もとても好きなところですが、しかし現状から鎌倉時代の姿をうかがい知ることはできません。

2005_12230245.jpg

この大仏坂切通しについて確実と思われるのは、現在我々が見る姿は実際には明治12年(1879年)から翌年にかけて工事されたものだと言うことです。
このとき5丁(545m)の山道を3丈(9m)切り下げて人力車が通れるようにしたと大仏入口右側にある石碑に書かれています。上下の写真のようないかにも「切通し!」と言う姿はそのときからのものでしょう。

2005_12230247.jpg

鎌倉市の市制三十周年記念に発行された「図説鎌倉回顧」に有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べていて、そこにはこうあるそうです

初めて私が横浜から鎌倉材木座海岸、海岸橋近い砂丘のかげに新築された小さな別荘へ来た事は妙にそこだけ覚えている。明治十八年初夏で私は数え年四歳だった。藤沢まで鉄道、藤沢からは人力四五台を連ね手広、笛田、大仏切通しと揺られ、長谷に着いた。・・・

今はとても人力車が走ったとは思えない状態ですが、その後の関東大震災などで岩が崩れたり、また雨で土が流されて岩が剥き出しになったりしたのでしょう。

2005_12230241.jpg

そのときに「5丁(545m)の山道を3丈(9m)切り下げて」と言うなら元の道をそのまま切り下げたのではないでしょう。山の中、と言ってもこの程度の里山の話ですが、斜面の中腹の道は大雨や台風での倒壊、そこまでいかなくとも少しづつ雨のたびに落ちてくる土砂ですぐに通れなくなります。だからハイキングコースでも尾根伝いが多いですね。

現在のルートの中心部はその尾根から僅かに2mの処を通っています。その尾根を歩いてみました。
(但し歩いた時点はマムシも冬眠の時期です、マムシに限らず「自己責任」の取れない方は止めてください)
完走した訳ではないですが。完走をあきらめたのはちょうどこの岸壁の上あたりです。ここは鎌倉時代より後の石切り場だと思います。釈迦堂切通しや、明月矢倉、そして瓜ヶ谷の矢倉群より新しいでしょう、もちろん素人の感想に過ぎませんが。如何にも「切通し!」と言う風情はここに降りるルートです。

2005_12230225.jpg

考古学者の赤星直忠氏と言えば鎌倉城史観の大御所、と言うか多分発端ではないかと思いますが、その赤星氏も「鎌倉市史・考古編」p177で「この切通しも当時のものではなく、江戸時代以降に手を加えて次第に低いものにしたものである」と述べています。もっとも平場は「防衛軍が陣する地点」とも書いていますけど。

私はこの大仏切通しの旧称深沢道は平安末期からあったのだろうとは思う様になりましたが、しかし「七口」がイメージするような鎌倉時代の鎌倉を代表する主要な入口ではなかったろうと思います。

「新編鎌倉志」と桐生六郎

さて「新編鎌倉志」の記述ですが、こういうものです。

大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか

これがこの後「武蔵大路」をめぐって大変な混乱を引き起こしているようです。私も参戦しちゃいましょう。 と言っても長くなるので武蔵大路についてはこちら にページを分けました。

私はこの「新編鎌倉志」の記述は、寿福寺の前のあたりの道を鎌倉時代に武蔵大路と呼んでいたこと、大仏坂切通しが深沢に通じていたことから、「そういえば吾妻鏡に桐生六郎が深沢を経て腰越に向ったと書いてあるね。ここを通ったのかしらん」と軽く書いているだけだと思います。で断定している訳ではありません。少なくとも私にはそう読めます。

  • なお引用中の「治承5年」は7月14日改元され「養和元年」になっています。以下「養和元年」で表記します。更にこれは吾妻鏡の編集ミスで実は1183年寿永2年のこととなります。詳しくはまた。

 

鎌倉時代初期の玄関は?

私が「鎌倉時代の鎌倉を代表する主要な入口ではなかったろうと」思う理由ですが、鎌倉時代初期から中期までの範囲の鎌倉を考えてみるとこうなります。。

京の方面から鎌倉に来る人たちはほとんどが腰越経由して鎌倉入りしています。
腰越が鎌倉側が西の鎌倉の玄関であればその先は稲村路、後には極楽寺坂しかありえません。
それに対して北の入口は化粧坂とか山内道がメインになります。

注意しなければいけないのは現在の鎌倉の町並みは忘れて、鎌倉時代の屋敷、町屋がどこにあったかです。中心は幕府と政所。それらは若宮大路の東側小町大路に門を向けて固まっています。それを踏まえて人の動き、物流を考えてみる必要があると思います。

map13s.jpg

赤い丸は大倉幕府(頼朝の御所)、その後の宇都宮・若宮御所と政所、赤い三角は町屋(商店街)、黄色い三角は下馬橋の3つです。鶴岡八幡宮寺の正門ともなる赤橋、二の鳥居、現在の下馬交差点で、この3つを結ぶのが若宮大路・段蔓です。当時の段蔓はそこまであります。白い丸〇は大きな有力者の館と大きな寺などです。実は大倉のあたりはもっと沢山あるのですが、見にくくなるので省略しました。

上の図からは、化粧坂が他国、特に武蔵国から梶原、深沢、洲埼、常楽寺などの山の内を経由する入り口であれば、大仏切通しは出る幕が無いように見えます。もちろんこの図の東側の六浦路も東京湾を隔てた対岸、下総・上総国との交通では重要だったとは思いますが。海路も実は大きな位置を占めていて、和賀江の様子は貞応二年(1223)の『海道記』にこう書かれているそうです。

 貞応二年(1223)、『海道記』の作者は、鎌倉の浜辺の様子を
「湯比の浜に落着きぬ。しばらく休みて此所をみれば、数百艘の舟、とも綱をくさりて大津のうらに似たり。千万宇の宅、軒をならべて大淀のわたりに異ならず。 (中略) 東南角の一道は舟※(しゅうしゅう)の津、商賈の商人は百族満ちにぎはひ」
と描写している。この当時の由比ヶ浜にしてはいささが誇張が過ぎる表現と思われるが、東南の角の舟※の津の存在は興味深い。これより九年後の貞永元年(1232)七月十二日、勧進聖の往阿弥陀仏から舟船着岸の煩をなくすために和賀江津に人工島を築いて港としたいという申請が出され、執権北条泰時 はこれを大いに喜び、人々も助力を惜しまなかったので、七月十五日に着工した工事は八月九日には完成している(『吾妻鏡』)。 (大三輪龍彦 「中世都市鎌倉を掘る 」)

  • もっとも(中略)の部分には「御霊の鳥居の前に日を暮らして後、若宮大路より宿所につきぬ。」とありますのですので前半は御霊神社、甘縄の前浜あたりでしょう。ちなみに当時の浜は上の図のように相当御霊神社や甘縄神社に近かったはずです。後半は別の日で和賀江の様子でしょうね。

またの図の米町のあたりまで荷を運ぶ小舟が入っていたようです。米町の西隣に夷堂(現本覚寺)がありますが、夷神はこの時代漁業海運関係の神です。ただしこちらは確実な資料ではありませんが十分に考えられることだと思います。

三代執権北条泰時の時代に鎌倉の人口は膨れあがり、また北条得宗家(本家)の私領への別業(私邸)、私寺との関係もあって13世紀中ごろに道の拡張工事がなされますが、それは山内道と六浦路です。そしてそれより遅れて京方面との交通では極楽寺坂です。それぞれにその重要性はよく理解できます。名越と小坪口、そしてこの大仏切通し(深沢切通し)が出てこないのも同じ(逆の)理由で理解できます。

2005_12230174.jpg

深沢の範囲・大仏も深沢

ではここに道は無かったのかと言うと、これもまた否定できません。遠方からの通路ではなく、ローカルな通路としてなら鎌倉時代からあったろうと言う根拠を最近知りました。山道はあっただろうと言う根拠はなんと、長谷の大仏は深沢だったのです。これには参りました。

吾妻鏡 1238年(嘉禎4年)3月23日(11月23日改元暦仁元年)
未の三点寅方大風、人屋皆破損し、庭樹悉く吹き折る。申の刻晴に属く。西風また烈し。御八講の結願、頗る魔の障りなり。今日、相模の国深澤里の大仏堂 事始めなり。僧浄光尊卑の緇素を勧進せしめ、この営作を企つと。

吾妻鏡 同年5月18日 
相模の国深澤里の大仏 の御頭これを挙げ奉る。周り八丈なり。

吾妻鏡 1241年 (仁治2年) 3月27日 
午の刻大倉北斗堂立柱・上棟。前の武州監臨し給う。前兵庫頭定員・信濃民部大夫入道行然等奉行たりと。また深澤の大仏殿 同じく上棟の儀有りと。

「鎌倉市史(総説編)」で高柳先生が触れていので、慌てて「鎌倉の地名由来辞典」を見たら深沢郷は台から山崎、梶原、寺分(てらぶん)、常盤(常葉)、長谷、笛田、津地域と推定と。となると思い起こされるのは御霊神社の鎌倉権五郎景政ですね。大庭御厨を開発しました。大庭御厨は大雑把には藤沢あたりです。

彼の国の住人故平景正(鎌倉権五郎景正)、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。(『天養記(官宣旨案)』)

鎌倉権五郎景政の一族は梶原、大庭、長尾、俣野と鎌倉から西北に境川の先までを開拓した在地領主です。尾根で隔てた両側が同じ地名ならその両側を結ぶ山道はあったはずです。

余談ですが吾妻鏡の「相模の国深澤里の大仏堂」と言う言い方はこの時代、現在の長谷一帯はまだ鎌倉中とは認識されていなかったのだろうと高柳先生は指摘されています。

2005_12230189.jpg

梅松論の中道

「鎌倉市史(総説編)」で高柳光寿先生が「梅松論」の記述に触れて「中道」は大仏坂道ではないかとおっしゃっています。「梅松論」は貞和五年(1349年)頃から源威集(嘉慶年間1387-1389)に至る過程で成立と推測され資料的価値は「太平記」よりも高いとされています。目的としては源威集と同様に足利幕府の正当性とその賛美のようです。

三つの道へ討手をぞ遣されける。下の道の大将は武蔵守(金沢)貞将むかふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の義ありて責め上る間、武蔵の鶴見 の辺において相戦けるが、これも打負けて引き退く。
武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき(洲埼)千代塚 において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。南條左衛門尉并びに安久井入道一所にて命を落とす。
陸奥守貞通(=北条氏)は中の道の大将として葛原において相戦 ひ・・・

その次の章で極楽寺・稲村ケ崎となります。高柳先生は「下道は巨福呂坂道と諸家が一致している。そして中道も化粧坂道ということに諸家が一致している。それでは武蔵路はどこかと言うのである。(p191)」「・・・「梅松論」に中道と言っているものを従来の研究者は化粧坂口としているけれども、これはこの大仏坂道ではないかと思う。(p189)」と新説を出されています。新説と言っても昭和43年(1968年)のことですが。

しかしこれは違うと思います。その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されていますがそれだから解決がつかなくなるのではないでしょうか。

また武蔵道は「東山道武蔵路」から相模国府への道をベースにした所謂「上道」だと思います。「上道=武蔵道」に対する堅めとして赤橋盛時が洲埼を固めた。北条貞通と福将金沢越後左近太夫将監は山内荘の北からの道「中道」に備えたが、「上道=武蔵道」から村岡・藤沢・片瀬の方に新田軍の主力が来たので洲埼の後詰の意味もあり化粧坂に引いて防衛線を引いた。そう解釈すれは何の問題も無いように思います。

そして「梅松論」と「太平記」を両方合わせても大仏切通しは出てこない。大仏近辺に屋敷を構えた大仏(北条)貞直は出てくるけど、大仏貞直は極楽寺と稲村路を守っている。この頃、鎌倉時代末期には長谷のあたりも民家が密集していたようですから、大仏切通しも地域の物流の為に多少は整備されていた可能性はありますが、鎌倉外からはさほど注目されるほどのものではなかったのだろうと思います。

これについての議論は「化粧坂」の方に移動しましたのでそちらでご覧ください。

 

宴曲抄

ところで面白いものを見つけました。
鎌倉時代後期の明空(月江)によって多く創作・撰集されたとされる「宴曲抄」です。要するに歌謡曲ですね。と言っても、作ったのはお坊さんですから信仰を歌ったものが多いようでます。極楽寺の律宗の方じゃないかとも言われています。残っているのは室町時代の写本のようですが、その中に「善光寺修行」と言うものがあります。

ここからが本題。「善光寺修行」は鎌倉から信州の善光寺までの道のりを歌ったものですが、当時、鎌倉後期の上つ道のルートが良く見てとれます。で、その出発が

吹送由井の浜風音たてて 
頻(しきり)によする浦浪を 
なを顧る常葉山 
かはらぬ松の緑の 千年(ちとせ)も遠き行末分すぐる
秋の叢(くさむら)小萱(をかや)刈萱(かるかや)露ながら 
沢辺の道を朝立て 
袖うちはらふ唐ころも 
きつつ馴にしといひし人の 
干飯(かれいひ)たうべし古(いにしへ)も 
かかりし井手(ゐで)の沢辺(さはべ)かとよ 
小山田(をやまだ)の里に来(き)にけらし 
過来方(すぎこしかた)を隔(へだつ)れば 
霞(かすみ)の関(せき)といまぞしる
思(おもひ)きや我(われ)につれなき人をこひかく程袖をぬらすべしとは  

由井の浜(鎌倉・由比ヶ浜)、常葉山(鎌倉・常磐山)、叢(くさむら)小萱(をかや)(村岡:藤沢市宮前:深沢から柏尾川を渡ったあたり)、ながら沢辺(柄沢:藤沢市あれ?こんなとこ通るの?)、干飯たうべし(境川の飯田牧場あたり)、・・・・
とこうなるのですが、問題は最初の3つ。鎌倉から深沢を経るのにどの道を通ったのか。
常磐山が微妙ですね。困ったことに大仏坂ルートでもからでも化粧坂ルートからでも常磐山は見えます。でも常磐山に沿って下りるとしたら化粧坂ルートの方に分がありますね。
常磐と言えば北条政村の常磐邸がありますが、あそこから鎌倉中、特に政所、北条小町亭に行くには大仏切通しはえらい遠回りです。それより尾根に上がれば化粧坂から現在の大仏ハイキングコースに入ってすぐの処、佐助稲荷の手前の処に出ます。

実はもしかしてこれが「鎌倉時代から大仏坂主要ルート」説の裏付けになるかと思って地形図を見ながら調べ、実際に行ってみたのですが、と言うのは極楽寺を出発点にするならそれが自然と思えて。でもまたしても確証得られずでした。こりゃ、鎌倉時代の古文書でも見つからない限り迷宮入りですね。だいたい七口なんて鎌倉時代には言っていないし、江戸時代のそれもそもそも奈良・平城京の七口の語呂合わせらしいし。

2007.02.02追記 まだまだ書きかけ