鎌倉七口切通し   六浦道と朝比奈切通し.3

平安時代以前  鎌倉時代から室町時代  江戸時代から昭和  朝比奈切通の伝承の世界

江戸時代から現在へ

鎌倉時代以降も室町時代、江戸時代、そして明治・大正とこのルートは経済的に重要な鎌倉の動脈で長い年月をかけて掘り下げられ、現在の姿になっています。従ってあの姿は鎌倉時代のものと同じではありません。それは切落とした岩肌の風化の具合、そして時たま見えるやぐらの位置でも解ります。

鎌倉から六浦・金沢文庫に抜ける車道県道金沢・鎌倉線を、光触寺を超えた先で、十二所神社の直前、神社前の信号から東へ分岐する道が朝比奈切通へ向う旧道六浦道であると言うことは既に述べましたがその分岐を曲がって旧道を入ったすぐの処に石仏があります。古いものではありません。江戸時代ですが、それからでもこれだけ道は下がっています。これも防衛遺構だと言う人が居るらしいですがちょっとうんざりです。


新編鎌倉志」に浄誉向人という僧がこの切通道を修造していることが書かれています。

近比も浄誉向入と云道心者、此の道を平らげ、往還の悩みをやむるとなり、延宝三年十月十五日死すと、石地蔵に切付てあり (カタカナをひらがなに直しました)

その石地蔵がこれでしょうか。この地蔵型供養塔には確かに延宝三年十月十五日と。延宝年間は1673年からですから1676年と言うことでしょう。右には浄誉と言う字も確かに見えます。尚、「新編鎌倉志」の成立は1685年で、文章が書かれたのはそれより前ですから、「近頃も」となるのでしょう。

「『新編相模国風土記稿』には

峠坂 村中より大切通に達する坂なり延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと「鎌倉志」にみゆれど、今文字剥落す、

とあるそうですが、「今文字剥落」してと言うのは他のものと間違えたのでしょうか?  

もっとも延宝三年十月は浄誉が死んだ日、あるいはこの石仏を建てた時期で、浄誉が行った道普請の時期ではないでしょう。江戸時代に繰り返しこの切通しが掘り下げられ、広げられていった様子は残されたいくつもの道供養塔から知ることができます。

例えば「鎌倉市文化財総合目録・建造物編」(鎌倉市教育委員会 昭和62年)にはその1676年(延宝三年)の他にも

  • 「道供養塔」 1669年(寛文9)10月吉日
  • 「南無阿弥陀仏」 1780年(安永9)12月吉日
  • 「道造供養塔」 1812年(文化9)4月吉日

六浦側では「横浜市文化財調査報告書(第7)」(横浜市教育委員会 昭和45年)に

  • 「坂道供養塔」 1822年(文政5)12月吉日
  • 「猿田彦大神」 1857年(安政4)

昭和62年にあった寛文9年の「道供養塔」が平成13年調査時点では現地に見られないなど江戸期に建てられた「道供養塔」の内、今に残るのはその一部にすぎないと思います。例えば5代将軍徳川綱吉に仕えた柳沢吉保の「楽只堂年録」に1703年(元禄16)の大地震で37間(66m)に渡り倒壊したことが記されているそうでが、それが1780年まで放置されたとは思えません。尚、その大地震で巨福呂坂切通し(こぶくろ)も60間(約110m)に渡りって倒壊したことも記されているそうです。 そのような大地震が鎌倉時代から関東大震災に至るまで何回も鎌倉を襲っていることでしょう。

江戸初期から鎌倉は観光地として有名になっていきますが、江戸時代末期には「東海道五十三次」で有名な歌川広重が天保(1830-1843年)後期に朝比奈切通しから帆船の浮かぶ金沢の海を眺めた(デフォルメですね)「朝比奈切通しの図」(神奈川県立博物館蔵)を書き、いよいよ江戸からの観光客が増えていき、また。幕末の横浜外人居留地に居た西洋人達も金沢八景の景観を観光し、そして切通しを超えて鎌倉を訪れたりしたようです。

そして明治以降も、戦後の昭和31年10月に、すぐ北側の県道金沢・鎌倉線が開通し、翌月にバスの運行が始まるまでは、東京湾側から鎌倉に入る現役の重要な道路であったようです。


現在この切通しへの道を登っていくと、かなり高い位置に矢倉を見ることができます。矢倉は通常は鎌倉時代から室町時代の始めまでですからそのころの道はあの高さだったんでしょう。室町時代から戦国時代のこの切通しを知ることのできる資料はありませんが、道普請が行われたにしても江戸時代ほどでは無かったのではないでしょうか。

従って主に江戸時代にこの写真を撮ったときに立っていた深さまで掘り下げられたと考えるのが自然だと思います。


そしていよいよ大切通し、ここがピークです。

朝比奈切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村境にあるを大切通と云ふ道巾四間許、大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ道巾二間許、共に鎌倉より六浦への往還に値れり   「新編相模国風土記

下の岩肌は如何にも新しいです。このくぼみは切通す為ではなくて、鎌倉石を切り出したんでしょう。規則的なノミ?のあとがはっきり解ります。明治以降、下手すりゃ昭和も第二次大戦後じゃないの?

と思うのは、関東大震災当時はこの道も石切職人もまだ現役です。関東大震災で多くの石切り場が崩れて仕事が困難になり、またコンクリートの浸透もあって昭和37年頃に消滅したようです。逆に言うと昭和37年、1962年まで鎌倉石が切り出されていたと。

もうひとつ、ここを私が「下手すりゃ昭和も第二次大戦後?」と思うのは、鎌倉で掘り下げられた年代がはっきり判る切通しに銭洗い弁天の現在の入り口前があります。年代がはっきり判ると言うのは、それが第二次大戦後期に、それより上の山頂に高射砲陣地を敷設するために作られた道だからです。そしてその今の姿は・・・・、苔むして木の根が張りつき、この上の石切り場よりもよっぽど古色を帯びています。

上の方は風化の具合がはっきり違います。この画像では上1/3ぐらいが初期(鎌倉時代以降江戸時代までの切通しではないでしょうか? 


これもどうもやぐらと言うより石の切り出し跡のように見えます。そんなに古いものではありません。

大切通しを抜けて振り返ったところ。


前を見るともう鎌倉市ではなく横浜市です。真ん中の道が二股になっているところの右が熊野神社に通じる道です。ただし、鎌倉以前の六浦(むつら)道がそれだとは思えません。

 

2007.07.11〜18 再編集