鎌倉七口切通し   六浦道と朝比奈切通し.4

平安時代以前  鎌倉時代から室町時代  江戸時代から昭和  朝比奈切通の伝承の世界

伝承の世界・朝比奈の名

ところで鎌倉時代には「朝比奈切通し」と言う呼び名はありません。それはそうでしょう、この名は和田義盛の三男、朝夷奈三郎義秀が由来なんですから。

鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦へ通ズル要衝ニ當リ大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラルルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀一九〇〇)十一月鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月經營ノ事始アリテ 執權北條泰時其所ニ監臨シ諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ 此切通ハ即チ其當時ニ於テ開通セシモノト思料セラル
   昭和十六年三月建     鎌倉市青年團  鎌倉史跡碑事典

朝夷奈三郎義秀は和田一族が滅んだ和田合戦で猛将ぶりを発揮し、当時は若者だった北条泰時や足利義氏と切りむすび、最後は行方が分からなくなったことから田谷の洞窟に潜んでいたとか、500 騎の兵と 6隻の船で安房に逃亡したとか(ぶらり金沢散歩 史跡・朝比奈切通し−歴史・伝説・民話を歩く−)伝えられる人物です。

しかし500 騎も兵を引き連れていたのなら和田氏の圧倒的勝利で終わったはずなんですが。こなみにこの小さな滝は三郎の滝と言う名がついています。付けられたのは江戸時代だと思います。

「鎌倉七口」と言う「名数」について記述した最も古い文献は『玉舟和尚鎌倉記』(推定1642〜1644年)ですが、ここでは七口の全てを「坂」と記述されていて、朝比奈切通に該当する坂は「峠坂」で「金沢口」としています。

朝比奈切通という名前が初めて登場するのは『金兼藁』(推定1659年)に著者が鎌倉に来て滞留遊覧したときの記述です。この頃、鎌倉はすでに有名な観光地であり『金兼藁』の著者も、勤めを引退して言わば定年退職記念旅行のような感じで鎌倉を訪れたと推定されています。その段階では現地の伝承として朝夷奈三郎義秀が担ぎだされていたのでしょう。

何故か? 切通しとしての立派さは一番なのに名前が「峠坂」じゃ名数七口の中で他に負けちゃう(観光客が喜ばない、呼べない)からじゃないですかね。

「あの猛将朝夷奈三郎義秀が和田合戦で敗れて引くときに、名刀○○でエイッ!と尾根を断ち切って500騎の武者を引き連れて逃れていったんですよ旦那。」

なんてまるでモーゼの十戒の海が割れるシーンみたいなことを言われれば「おお、それは見ねばなるまい♪」とらるかえあでしょう。まあ地元民にすれは嘘でもいいから他人に自慢できるような由来が欲しいものですからね。他が「極楽寺坂」や「化粧坂」なのに「峠坂」じゃぁねぇ。(笑)

もうすこし真面目に言えば、『金兼藁』は漢詩を綴ったノートであり、鎌倉史上引き合いに出されるのはその漢詩についての状況説明である詞書きであることに注意しておく必要があります。従ってその場所のロマンには敏感に反応するのでしょう。ただしその時代にもそうとしか言われなかった訳ではないことはその『金兼藁』に「またいわく、金沢切通し(原文は漢文)」と書かれていることでも分かります。

その『金兼藁』の特徴は、その記述が伝聞ではなく、本人が直に見たままであるようで、検証できる範囲では実に正確であるようです。従ってこれは江戸時代初期の光景として信じてよいのでしょう。

切通之間一町、両崖高十丈。殆如絶壁、不生艸木

でもそうすると両崖高十丈って、明治以降なら30m、大昔なら18m。う〜ん、ですねぇ。ひょっとして両岸の尾根までの高さ? 良く判りません。

尚、ここから海側は横浜市金沢区朝比奈町で、朝比奈インターチェンジも有名ですが、江戸時代は峠村、明治22年から大字(おおあざ)峠、朝比奈町となったのは昭和11年からのことです。朝夷奈三郎義秀の朝夷奈とは安房の国朝夷郡朝夷がを領していたのだろうと言われています。

もうひとつの伝承の世界・大刀洗川

さて、上総介平広常(ほんとは「廣常」ですがここでは「広常」に統一)の館がこの朝比奈切通しの近くにあったらしいと言うことを先に触れましたが、上総介平広常は、頼朝の鎌倉入りから3年後には寿永2年(1183年)の12月に頼朝の命によって梶原景時に暗殺されます。鎌倉側から先の「三郎の滝」までの道沿の小さな川は、梶原景時が血刀を洗ったと言うので太刀洗川と言う名前になっています。 

鎌倉より切通の坂へ登る左方に、岩間より湧き出る清水あり。梶原が太刀洗水と名く。或は、景時が広常を討ちし時、太刀を洗いたる水と云事歟。是も鎌倉五水の一つなり。或は此の辺に上総介広常が宅ありつるか。(新編鎌倉志)

その上総介平広常が殺された状況は吾妻鏡には書いてありません。と言うか1183 年の記述自体が非常に少ない。上総介平広常が頼朝の命によって梶原景時により殺されたことは京の公家の記録により今に知られています。上総介平広常が殺されたのは1183年(寿永2)12月22日の事とか。

奥富敬之氏の「鎌倉古戦場を歩く」には「幕府の営中で」暗殺し、その後「梶原勢数百騎」が「六浦路の東端に」ある広常の館を急襲し一子小権介良常と郎党達を打ったとありますが、その根拠は何にとっているのでしょうか。暗殺場所は吾妻鏡壽永3年1月1日の条かもしれませんがその後は? 梶原勢がこの地の上総介平広常の館を襲わないと大刀洗川が説明出来ないからからと言うことでしょうか。

小権介良常は広常と同じ日に、「被殺於鎌倉」と『続群書類従』 第六輯上 系図部 p159収録の「千葉系図」には有りますが、それ以外の記述は知られていないはずです。

私が不勉強なだけかもしれませんが、この本は俗説の塊で歴史書とは思えません。小説だと言うならこれでも良いですが。それならそうとちゃんと宣言してほしいです。尚、奥富敬之氏はこの時代を専門とする歴史学ですが「梶原勢数百騎」と言うだけでも「平家物語」や「太平記」の世界ですね。

上総権介広常の誅殺

さて、吾妻鏡に出てくるのは翌年のこの記述です。

1184年(壽永3年、4月16日改元元暦元年)
1月1日
鶴岡八幡宮御神楽有り。前の武衛御参宮無し。去る冬の広常の事に依って、営中穢気の故なり。籐判官代邦通奉幣の御使いとして、廻廊に着す。別当法眼参会す。法華八講を行わると。

1月8日
上総の国一宮の神主等申して云く、故介の広常存日の時、宿願有り。甲一領を当宮の宝殿に納め奉ると。武衛仰せ下されて曰く、定めて子細の事有るか。御使いを下され、これを召覧すと。仍って今日籐判官代並びに一品房等を遣わさる。御甲二領を進す。彼の奉納の甲はすでに神宝たり。左右無く出し給い難きが故、両物を以て一領に取り替えるの條、神慮その祟り有るべからざるかの旨仰せらると。

1月17日
籐判官代邦通・一品房並びに神主兼重等、広常が甲を相具し、上総の国一宮より鎌倉に帰参す。即ち御前に召し彼の甲(小桜皮威)を覧玉う。一封の状を高紐に結い付く。
武衛自らこれを披かしめ給う。その趣、武衛の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、すでに以て露顕するの間、誅罰を加えらるる事、御後悔に及ぶと雖も、今に於いては益無し。須く没後の追福を廻らさる。兼ねて又広常弟天羽庄司直胤・相馬の九郎常清等は、縁坐に依って囚人たるなり。亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると。願書に云く、
 敬曰
 上総の国一宮宝前
 立て申す所願の事
 一、三箇年の中、神田二十町を寄進すべき事
 一、三箇年の中、式の如く造営を致すべき事
 一、三箇年の中、万度の流鏑馬を射るべき事
 右志は、前の兵衛の佐殿下心中祈願成就・東国泰平の為なり。此の如き願望、一々円満せしめば、いよいよ神の威光を崇め奉るべきものなり。仍って立願右の如し。
 治承六年七月日上総権の介平朝臣広常

上総介平広常は頼朝に対する謀反の疑いを直接の理由として殺され、その所領は千葉介常胤、和田義盛らに下された後に、上記の一件で謀反の疑いは晴れ、囚人となっていた者は釈放されたが、所領はすでに分配された後だったので元には戻らなかったと。もっともこれは予定の行動であったろうと言うのが大方の見方です。

さて、吾妻鏡はその事件よりもだいぶ後に様々な資料を元に編集されたものなので、その陰謀誅殺事件を前提に解釈がなされています。その吾妻鏡を前提に世間で言われるのは上総介平広常は千葉介常胤の様な源家に対する忠君の士ではなかったと。

頼朝が石橋山の合戦に敗れて小舟で安房(千葉館山あたり)に渡ったのは1180年の8月29日のことですが、その後を吾妻鏡で見ていくと。

吾妻鏡1180年9月1日条 
武衛上総の介広常が許に渡御有るべきの由仰せ合わさる。北條殿以下、各々然るべきの由を申す。・・・
9月4日条 
安西の三郎景益御書を給うに依って一族並びに在廰両三輩を相具し御旅亭に参上す。景益申して云く、左右無く広常が許に入御有るの條然るべからず。長狭の六郎が如きの謀者、猶衢に満たんか。先ず御使いを遣わし、御迎えの為参上すべきの由仰せらるべしと。仍って路次より更に御駕を廻らされ、景益が宅に渡御す。和田の小太郎義盛を広常が許に遣わさる。(安達)籐九郎盛長を以て千葉の介常胤が許に遣わす。各々参上すべきの趣と。

9月9日条 
盛長千葉より帰参す。申して云く、・・・。常胤が心中領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。その後盃酒有り。次いで当時の御居所指せる要害の地に非ず。また御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。

引用の最後の部分は有名な鎌倉城説のひとつの根拠になっていきます。

9月13日条 
安房の国を出て、上総の国に赴かしめ給う。所従の精兵三百余騎に及ぶ。而るに広常軍士等を聚めるの間猶遅参すと。今日、千葉の介常胤子息・親類を相具し、源家に参らんと欲す。爰に東の六郎大夫胤頼父に談りて云く、当国目代は平家の方人なり。
吾等一族悉く境を出て源家に参らば定めて凶害を挟むべし。先ずこれを誅すべきかと。常胤早く行き向かい追討すべきの旨下知を加う。仍って胤頼並びに甥小太郎成胤、郎従等を相具し、彼の所を競襲す。・・・

9月17日条 
広常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。
千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。
従軍三百余騎に及ぶなり。

9月19日条 
上総権の介広常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。
広常潛かに思えらく、当時の如きは、卒士皆平相国禅閤(平清盛)の管領に非ずと云うこと無し。爰に武衛(頼朝のこと)流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべしてえり。仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。陸奥鎮守府前の将軍従五位下平の朝臣良将が男将門、東国を虜領し、叛逆を企つの昔、藤原秀郷偽って門客に列すべきの由を称して、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳く所の髪を結わず、即ち烏帽子に引き入れこれに謁す。秀郷その軽骨を見て、誅罰すべきの趣を存じ退出す。本意の如くその首を獲ると。

平家物語でも何でも、当時のものは故事来歴に当てはめて語るのが教養の証し、かつ読む者に説得力となると言う訳でここでは平将門の故事を踏んでいますね。

広常が内心どう思ったかなど本人にしか分からないことです。また広常は上総権介と書かれていますがそれは後のこと、当時惣領である上総権介は広常ではなくその兄の常茂で平家に仕えて京に居ます。

9月13日から約1週間で本来の上総権介(新介)で常茂に暗殺されて惣領の地位を奪われた長兄常景の嫡男である伊北庄司常仲と手を組んで上総国内の常茂勢の掃討やその他上総国内全域に渡る上総介一族を取りまとめて二万騎(あり得ませんが)と言われる大軍を率いて頼朝に合流します。その段階でも平家方で三浦一族にとっては仇敵の長狭常伴などが残っていますから上総の国も上総権介の肩書きも最初から広常のものだった訳ではありません。

頼朝挙兵を好機と平家に直接仕える兄常茂の勢力を叩きつぶし、他の平家側勢力もおそらくは打ち破っての上総の国武士団の集結でしょうから「形勢高喚の相無くば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべして」はあり得ません。

源頼朝が初めて京に上洛し、権大納言・右近衛大将となったのは1190年の事ですが、「愚管抄」(巻六)には上洛した頼朝が後白河法王にこう語ったと記されています。

介の八郎広常と申候し者は、思い廻し候えば、何条朝家(朝廷)の事をのみ見苦しく思うぞ。功有る者にて候いしかど、誰かは引き働かさんのと申して、謀叛心の者にて候しかば、かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、うしない候にきとこそ申けれ。その介の八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなり。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。

謀反の疑いは最初から口実で、こちらが本音でしょう。頼朝が鎌倉入りした直後の富士川の戦いで平家側寄せ手が敗走したあと、更に軍を進めようとした頼朝に対して強烈に反対してまずは関東をと佐竹攻めに向かわせたのはこの上総権介広常ら(あとは千葉介常胤に三浦介義澄)です。

実際に関東はまだとても安定している状態とは言えなかったのはその後の藤性足利氏や志田義広の乱を見ても判ります。上総権介、千葉介一族にとっての宿敵は遠い西国の平家などより自分の領地を脅かし続けた国主藤原氏と常陸の佐竹氏ですから。

上総権介広常の誅殺事件は先に述べたように寿永2年12月のことです。 寿永2年と言えば頼朝の鎌倉政権にとっては重大な転換点にあたります。

それまでの頼朝は平治の乱以降は無官の罪人で、関東の御家人に対しては以仁王の平家追討の「令旨(りょうじ)」を掲げて平家が立てた天皇を認めず、年号も養和(ようわ治承5年7月14日 改元 )や養和2年5月27日改元 の寿永(じゅえい)を用いず、以仁王の挙兵時点の「治承(じしょう : ちしょう)」を用いていました。謂わば地方独立国家です。脆弱ではありましたが。

この寿永2年当時、平家は西国に逃れて、京は反平家で源氏の木曽義仲が(内実はもろいものながら)抑え、関東で頼朝に牙を剥いた叔父志田義広(源義広)や行家までが合流し、鎌倉政権は極めて危うい立場に立たされていました。

それが寿永二年十月宣旨と同時に、配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に復帰し、謀叛人の立場から脱却します。そしてその寿永二年十月宣旨は東国における頼朝の朝廷の元での公式な権力、後の守護・地頭制の萌芽とも言うべき内容になっています。頼朝がおそらくは京から来た大江広元らと後白河法皇をじらしつつ必死の外交交渉でやっと勝ち取ったものです。

しかし、それに対して「何条朝家(朝廷)の事をのみ見苦しく思うぞ」、つまり朝廷など天下国家などどうでもよい、関東で自分たちの領地が維持出来て平家や朝廷の介入が阻止出来ればそれで良いとする雰囲気が御家人の中に根強く、その筆頭というか、面と向かって公言して憚らなかったのが上総権介広常だったのでしょう。謀反などより自分を神輿に担いでいる関東の御家人達のそうした雰囲気を打ち砕かなければ頼朝にとって明日は無いと言う状態で上総権介広常の誅殺が行われ、それによってやっと関東勢の西国攻めが固まります。

ですからこれは違います。

鎌倉幕府の御家人の多くは八幡宮や大倉幕府の中心部に屋敷をかまえていましたが、広常は六浦へ向かう山中に屋敷をかまえていて、危急の時に真っ先に山道を通って六浦へ出て郷里の上総に逃げることができる位置にあったのです。そのことも頼朝に疑われる要因であったのでしょう。

そしてそれまでは500騎(京の公家の伝聞)ほどで尾張あたりに留まっていた源範頼・義経軍はおそらくは関東からの兵力増強を受けて数万騎(ほんとか?)の大軍で京に攻め登り、源氏の代表を争った木曽義仲を打ち破るのがその約1ヶ月後の1月20日です。頼朝の勝利は壇ノ浦での平家の滅亡よりもこのときだったように思います。

吾妻鏡1184年(壽永3年)1月20日条
蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追討せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国粟津の辺に於いて、相模の国住人石田の次郎をして義仲を誅戮せしむ。・・・

 

2007.07.11〜8.18 再編集