兵の家各流    源氏の流れ

源氏の流れと系図

ここでは洞院公定が南北朝時代から室町時代初期に編集した「尊卑分脈」から、平安時代末期までの源氏を系図と官位から見て行きます。しかし、私のメモですから正確性は保証できません。
色は:正四位 従四位 従五位上以上または受領任官です。範囲は源義朝が倒れる平治の乱までとしましたが一部はあまり厳密ではありません。どうも「尊卑分脈」の官位は怪しげなんですが、検証はせずにそのまま使うところもあります。本当のところは誰にも解りません。
美濃源氏等リンク先に個々人毎のメモがありますが、あくまで私の自分用史料で随時更新です。


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平氏の官位は清盛以前では従四位以上はこんなには多くありません。源氏では26名も居ます。もちろん史料の信頼性が低いので誤差は含みますがそれにしてもその差は歴然としています。

しかし源氏の武家の統領としての血統は約束されていたものではなく、また氏長者の地位も実は曖昧です。ああいう摂関家、公卿、諸大夫、侍と言う家格、そして「武家の家」と言う「家業?」の範囲内ではありますが、各自が官位や実収入・資産をそれこそ「血」と汗で築き上げていこうとした結果です。

清和(ホントは陽成)源氏は実際には満仲に始まると見ても良いでしょうが、源満仲がのし上がったのは969年左大臣源高明を密告(と言うか引き下ろし陰謀)した安和の変によって藤原摂関家に取り入ったところからです。ついでに言うと源満仲はこの密告で「武の家」のライバルにして宿敵である藤原千晴(藤原秀郷の子)を失脚させました。「兵(つわもの)の家」秀郷流藤原氏には従四位以上は秀郷と陰謀で消されたその千晴だけです。
更に986年に藤原兼家、道兼の父子が起こした例の阿倍晴明でも有名な花山天皇の突然の出家・退位事件では、邪魔が入らないように源満仲が山科の元慶寺まで郎党を従えて警護するなど摂関家の私兵として機能しています。
以降この源氏は常に藤原摂関家と常に深い関係にありプラス頼義・義家の河内源氏が奥州の権益を巡った内戦の中で勢力を増強し、その後の内紛で力を削がれて行きますが、後半には摂関家・家産機構(荘園支配と年貢の流通)の中で勢力を維持していきます。

各流を個別に見てゆくと

摂津多田源氏

初期の本家?はこの源満仲から源頼光(らいこうとも)そして摂津多田源氏です。この流れは北面の武士の統括で武家貴族としては嫡流、代々北面の武士を束ねます。その関係で院政とも深い関われ居を持ちますが、摂関家家政機構との関わりの方も深く、エリートながらも京武者としての動員力しか持ちません。摂津多田党は保元の乱で100騎を率いたと出ていますが実数は50騎程度であったろうと言われています。騎馬武者50騎は徒足も入れれば人数としては3〜4倍の200名弱と言うことになりますが。

大和源氏

大和源氏は大和国を地盤としますが、興福寺との抗争に敗れてさほど強力な地盤とはなりませんでした。また源頼親の孫、頼俊は陸奥守として後三条天皇の命により奥州北部への討伐を行いますがうまくいかず、後半は完全に奈良の摂関家家政機構に組み込まれ突出した軍事貴族は出てきません。

源頼信からの河内源氏

源頼信からの河内源氏は奥州の金に命を懸け、全国展開を図って言ったところが他の源氏諸流とは違うところでしょうか。摂関家との関係も深いのですが白河院にも接近しています。源義家は初期に白河法王にも目をかけられますが傘下には入らず独自の動きをした為か、白河法王は後三年の役から源義家を抑えにかかり、と言う見方もありますが、あるいは勝手に引き起こした後三年の役、その間の税の未納が問題だったのかもしれません。何年もかかって未納だった税を納めた後に正四位に昇進しています。
ただ源義家の不遇の期間も白河院は権門寺院の強訴の抑えに自己の武力のアピールは必要であり、義家の弟の源義綱を持ち上げ、やらせの凱旋パレードまで演出し、次には平清盛の祖父、平正盛に源義家の子、源義教を打たせこれまた大々的な凱旋パレードをやらせ一気に大国但馬の国主に昇進させたりします。

一方で河内源氏内部の抗争も激しく、兄弟愛の美談だったはずの義家の弟源義光が義家嫡男の義忠を暗殺、その罪を兄義綱一族に着せて義綱一族は全滅。義親の子の為義が義忠の養子となって義家の家を継ぎますが系図を見て解る通り、自分の庶子であるはずの兄弟や甥までが受領(国守)になっているのに源為義は一生検非違使のままです。

もっともこれは為義自身の失策による何回もの解官が原因であろうと。「保元物語」には為義が陸奥守任官に拘り他の国を希望しなかったからとあるようですがさて、どうでしょうか? 為義はそのため、摂関家の家産機構に根を生やしていっきます。そして保元の乱でもそのまま反鳥羽院政派・摂関家と運命をともにします。

源氏は武士の頭領? 2005.11.08修正

ところでこうして系図をまとめてみたのは源義朝・頼朝は本当に源氏の統領(氏長者)だったのか?と言うことです。源義家までは決して源氏全体を統率していたわけではなく源氏各流の中で自分で戦乱を起こして残忍にして猛烈な戦いぶりで世に「同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」と印象付け源氏他流から一歩抜きん出ましたが、その兄弟、子、孫、曽孫はバラバラに「骨肉相噛む」です。

またその「前九年の役」「後三年の役」ですが、50年近く昔の子供用の絵本では華々しい英雄の物語でしたが実際には惨憺たるものだったようです。また、関東の武士が総出で付き従った訳ではなさそうです。

保元・平治の乱の当時、武家貴族としては美濃源氏の光保の方が源為義や義朝よりよっぽど挌上です。確かに保元の乱では義朝の動員力の方が上(100騎対300騎)でしたが、それは義朝が南関東で自ら築き上げた勢力です。源頼義、義家の代から板東武者の「武家の統領」だったと言うのは事実ではなく源頼朝が「お前達は我が祖先義家公以来の譜代の家来なのだ」と吹き込んだと言う方が正しいのでしょう。それを認識させる為の一大パフォーマンスが頼朝の奥州攻め です。「吾妻鏡」の中で奥州攻めほど頼朝が生き生きしていたことは他に無いと言われるぐらいです。

源氏が武士の頭領かのごとくごとくに言われ出したのは室町時代、足利幕府の頃でしょう。源氏の政権は事実上足利幕府だけですので。また源頼光の武勇伝が作られたのも、多田神社が祭り上げられたのもその時代です。

(とりあえずここまで)

 源氏の各流・メモ