武士の発生と成立     前九年の役(後編)

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藤原経清

詳細は奥州藤原氏の祖・藤原経清をご覧ください。

藤原経清の名が登場する当時の史料は、長年『陸奥話記』のみとされていたそうですが、近年、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されています。これによると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者で、かつ下級ながらも貴族と中央の藤原氏からも認められていたことになります。

藤原登任が秀郷流の武者藤原経清を京より随行したと京大の元木泰雄氏が『武士の成立』の中(p89)で書いています。

秀郷流藤原氏の研究で名高い野口実氏も藤原登任の陸奥守就任によって藤原登任の郎党として下向、以前から陸奥も地盤を持つが、本来は中央軍事貴族とみて差し支えないと書かれています。

父藤原頼遠が陸奥に「留住」していたとしても、当時の武士は京で権門に奉仕し、官職につき位を得ることが身を立てる手段でしたから十分に考えられ、また五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることにも符合します。

しかしこの前九年の役から半世紀前の出来事、「今昔物語」巻第二十五 第五 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」の藤原諸任(藤原秀郷孫、藤原経清祖父?)も常陸国が本拠地で、陸奥国での些細な土地の領有を巡って平維茂と相論(裁判沙汰)を起こし、当時の陸奥守藤原実方(正四位下)が裁定を引き延ばしているうちに亡くなった998年以降に陸奥国での合戦を起こしています。

陸奥国の権益は奈良の大仏建立当時に陸奥国から砂金がもたらされて以来、歌人としても有名な古代軍事貴族大伴家持を始め、多くの貴族とその子弟が進出しています。安部氏、清原氏、藤原氏、平氏、橘氏、みんなそうでしょう。進出していなったのは清和源氏ぐらいのものです。清和源氏は武士としては後発でしたから。

この藤原経清は1051年(永承6)に鬼切部の戦いの後なのか、奥州六郡を支配する安倍頼時(頼良)の娘を妻に迎えます。

登任の後任に源氏の源頼義が任じられ、頼時が朝廷に帰服すると頼義に従いましたが、前九年の役の最初の頃、同じ安陪頼良(頼時)の女婿となっていた平永衡が安陪頼良(頼時)に通じていると疑われて頼義に殺され、いずれ自分も源頼義にやられると思い安陪氏側に付きます。

源頼義が出羽国の清原光頼・武則兄弟に頭を下げて援軍を請い、ようやく陸奥俘囚軍を鎮圧した後、源頼義からすれば憎っくき裏切り者で苦戦を強いられたこの藤原経清の首を鈍刀をもって何度も打ち据えるように斬り殺したと。

その後、経清の妻は経清の子清衡を連れて清原武則の子の武貞と再婚し、そのときの連れ子、経清の子が奥州藤原氏の祖藤原清衡になります。

平永衡(伊具十郎)

陸奥伊具郡司と良く言われますが、伊具十郎と言う通り名からの推測だと思います。

平貞盛の弟、平繁盛の孫と言う出所不明な説が有ったので、尊卑分脈を調べてみると、平兼忠の子に右衛門尉高衡、孫に右衛門尉兼衡とあり、「衡」の字を名に持つ者はここにしか居ません。この時代、子に1字をともにすることが多かったと思いますので、平高衡の兄弟かあるいはその子かとも考えられます。すると秋田城介平重成(繁成)の従兄弟かその子と言うことになります。
しかしその説が書いてあった処には父は平安忠(陸奥権守・従五位下)と。桓武平氏諸流系図(中条家文書)が出典なんでしょうか。平安忠も謎の人で出羽の清原氏にも色々と関係してきます。もしや平安忠は平兼忠のこととか?

平兼忠は従五位上、上総介、出羽守とあり、平繁盛流は常陸から陸奥にかけて勢力を伸ばしますから平兼忠の子、孫が陸奥に進出する、あるいはその一族の隣国や当地での勢力を評価されて藤原登任が陸奥下向時に伴ったと言う可能性も十分に。ただし全ては私の推測に過ぎませんが。

 

源頼義の苦戦

1057年11月、源頼義は安部貞任に大敗。長男義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱。

将軍の長男義家、驍勇(ぎょうゆう)絶倫にして、騎射すること神の如し。白刀を冒し、重圍を突き、賊の左右に出でて、大鏃の箭(や)を以て、頻(しき)りに賊の師を射る。矢空しく発たず。中(あ)たる所必ず斃れぬ。雷の如く奔り、風の如く飛び、神武命世なり。夷人靡(なび)きて走り、敢えて当たる者無し。夷人号を立して、「八幡太郎」と曰う。漢の飛将軍の号、同年に語るべからず。将軍の従兵或いは以て散走す。或いは以て死傷す。残る所、纔(わず)か六騎有り。長男義家、修理の少輔藤原景通、大宅光任、清原貞廣、藤原範季、同じく則明等なり。賊衆、二百余騎、左右に翼を張り圍みて攻むる。飛ぶ矢、雨の如し。将軍の馬流れ矢に中たり斃れぬ。景通、馬を得てこれを扶く。義家の馬また矢に中たり死す。則明賊の馬を奪いこれを援く。此の如きの間、殆ど脱れること得難し。しかるに義家頻りに魁師を射殺す。また光任等の数騎、殊死して、賊類と戦う。行なして漸(ようや)く、引き退く。  「陸奥話記」

波多野氏の祖、で秀郷流藤原公光の子(尊卑分脈」)か婿(佐伯系図)かの散位佐伯経範が源頼義が戦死したと思って自分も敵陣に切り込み壮絶な戦死を遂げたのはこのときです。

この時官軍の中に散位佐伯経範と云う者有り。相模の国の人なり。将軍厚くこれを遇す。軍敗るゝ時、圍みすでに解け、纔(わずか)に出でて、将軍の處を知らず。散卒に問うに、散卒答て曰く、「将軍は賊の圍む所となす。従兵数騎に過ぎず、これを推しても脱れ難からん」と。経範が曰く、「我将軍と事をするに、すでに三十年を経る。老僕の年すでに耳順に及ぶ。将軍の齢また懸車に逼(せま)る。今、覆滅の時に当り、何ぞ命を同じくせざらんや。地下に相従うは、これ吾が志なり」と。還りて賊の圍の中に入る。その随兵両三騎また曰く、「公すでに将軍と命を同じうし、節に死す。吾等、豈に独り生きるを得んや。陪臣と云うと雖も、節を慕うことこれ一つなり」と。共に賊の陣に入る。戦い甚だしく賊に捷(と)し、則ち十余人を殺す。しかるに殺死は林の如く、皆賊の前に歿す。 「陸奥話記」

藤原景季、散位和気致輔、紀為清、藤原茂頼

藤原景季は景通の長子なり。年(よわい)二十余にして、性は言語く善く騎射をす。合戦の時、死を視ること帰するが如し。馳せて賊陣に入り、梟師(けうすい)を殺して出づ。この如くして七八度して馬蹶(つまず)きて、賊のために得られる所となる。賊徒その武勇を惜むと雖ども、将軍の親兵たることを悪(にく)みて遂にこれを斬る。散位和気致輔、孫(紀)為清等は、皆萬死に入りて、一生を顧みず。悉く将軍の為に、命を棄ち。その士の死力を得ること、皆この類なり。又藤原茂頼は、将軍の腹心なり。驍勇して善く戦い、軍さ敗れたるの後、数日、将軍の往する所を知らず。賊のためにすでに没せりと、謂(おも)い悲み泣きて曰く。「吾、彼の骸骨のを求めて、方(まさ)にこれを葬り歛(おさめ)ん。但し兵革の衛(つ)く所、僧侶に非ざるよりは、求めて入るに能はず。方に鬢髪を剃りて、遺骸を拾ふのみ」と。則ち忽ち出家して僧となり、戦場を指して行く。道において将軍と遇し、且悦び且悲しみて、相従ひて逃がれ来たり。出家は劇(はなはだ)しきに似たりと雖ども、忠節なお感じるに足れり。 「陸奥話記」

経清の叔父、散位平国妙

又散位平国妙は出羽国の人なり。驍勇して善く戦い、常に寡を以て、衆を敗る。未だ曾て敗北せず。俗號に云て曰く「平不負」。字の曰く平大夫に故に能を加え不負と云う。将軍、これを招きて前師たら令む。しかるに馬倒れて、賊の為に檎(とりこ)にせらる。賊の師、経清は国妙の外甥なり。故を以て免れること得たり。武士猶以て耻(はじ)となす。 「陸奥話記」

それから26年後の1093年に源頼義の次男義綱が陸奥守だった頃、出羽国で平師妙(もろたえ)・師季親子が出羽国衙を襲い官物を横領したと言う事件(よくある話です)が有りましたが、散位平国妙の子・孫でしょうか?

出羽国清原一族

1062年)春、出羽国仙北(秋田県)の豪族清原光頼に助力を依頼。光頼は7月に弟武則を総大将とした大軍を派遣。陣は七陣であり、構成は、

  • 第一陣、武則の子武貞率いる総大将軍。
  • 第二陣、武則の甥橘貞頼率いる軍。(橘好則の一族か?)
  • 第三陣、武則の甥で娘婿である吉彦秀武率いる軍。
  • 第四陣、橘貞頼の弟橘頼貞率いる軍。(橘好則の一族か?)
  • 第五陣、源頼義率いる軍、
    陸奥国衙(在庁官人)軍。
    総大将武則率いる軍。
  • 第六陣、吉彦秀武の弟と斑目四郎吉美候武忠率いる軍。
  • 第七陣、貝沢三郎清原武道率いる軍。

ところで「第五陣、源頼義率いる軍」の顔ぶれは・・・

ここに因って、五陣の軍士、平眞平、菅原行基、源眞清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、橘孝忠、源親季、藤原朝臣時経、丸子宿禰弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方等を召して、合わせ加えてこれを攻める。皆これ将軍麾下の坂東の精兵なり。萬死に入りて、一生を忘れ、遂に宗任の軍を敗る。「陸奥話記」

「皆これ将軍麾下の坂東の精兵なり」とありますが、佐伯元方はおそらく波多野の散位佐伯経範の同族、丸子宿禰は相模に隣接した武蔵国丸子荘でしょうか。
1057年11月の大敗で長男義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱したときの、修理の少輔(六位ぐらい?)藤原景通は美濃、藤原則明は河内に本拠地を持つ京武者のようです。おそらくは相模を中心とした地域に領地を持つ者、及び配下の京武者が源頼義の直属でそれら直属兵力それほどは大きくはなかったと見られています。

以上1万人で、うち源頼義率いる朝廷軍は陸奥国衙軍も含めて3千人、実数は誇張があっても比率だけは信用出来るでしょう。これにより形勢は逆転し、安倍氏の拠点である厨川柵陥落。貞任は戦死、経清は処刑され、9月17日に戦役は終結した。12月17日の國解では

斬獲賊徒安倍貞任。同重任。藤原経清。散位平孝忠。藤原重久。 散位物部惟正。藤原経光。同正綱。同正元。帰降者安倍宗任。弟家任。則任。散位安倍為元。 金為行。同則行。同経永。藤原業近。同頼久。同遠久等也。「陸奥話記」

「散位」はこういう理解も一般的です。散位寮が有った頃はともかく平安時代後半においては。

散位のこと四位五位の人無官なれば散位の二字を用ふ。漢土に文散官武散官とあるこれなり。三位以上は公卿なり。公卿にして無官の人これを非参議と云ふ。これ公卿なれども官なくして、政事にあづからざればなり。四位五位の無官には散位と書す。六位以下は侍ひの官にして、位田なし。故に散位の二字を不用。しかれども公卿の官にあらざる人、二位三位に叙せらるゝ、これを散二位、散三位と云ふ。又非参議の四位と云ふものは前の参議なり。三位以上を称する非参議とちがへり。四位の公卿は宰相を限るゆへなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

ただし、奥州藤原氏初代の藤原清衡の当時の記録に散位、正六位上とあり、貴族(五位以上)の予備軍あるいは前提資格として官職は無くとも、ともかく位階をと言う風潮は有ったのかもしれません。
ただし、五位六位不明ながらも位階を持つ者が三名も記述されておりそのうちの一人散位安倍為元は貞任の伯父で陸奥在庁官人であったなど、朝廷に従わない蝦夷の末裔などという単純化した図式を当てはめることは慎むべきと思います。

貞任の首が京に入るときの話がまた泣かせてくれます。どうも当時の京の公家は内心安部氏に同情していたんじゃないでしょうか。

同六年二月十六日、貞任、経清、重任の首三級を獻(献)ず。京都は壮観となす。車は轂(こしき)を撃ち、人は肩を摩りぬ。これ先ず、首を獻じたる使者は、貞任が従者の降人なり。櫛無き由(よし)を称して、使者が曰く、「汝ら、私用の櫛有やあらん。それを以てこれを梳(くしけず)るべし」と。擔(担)夫、すなわち櫛を出し、これを梳る。涙を垂して、鳴咽(おえつ)して曰く、「吾が主、存生の時、これを仰くこと高天の如し。豈にはからんや、吾が垢の櫛を以て、恭(かたずけな)くも、その髪を梳ること、悲哀に忍びず」と。衆人は、皆涙を落しぬ。擔夫と雖も、忠義は人をして感しむに足ればなり。 「陸奥話記」

この功績で源頼義は正4位下伊予守、太郎義家は従5位下出羽の守、 次郎義綱は左衛門尉、清原武則は従五位下鎮守府将軍となります。

ところが源頼義は伊予守となっても当初任地には赴かずに、与力した武士達の恩賞獲得に奔走し、最終的には20名近くに。これも推測ですが、左右衛門尉など六位相当の官位が与えられたようです。

この「陸奥話記」に出てくる「皆これ将軍麾下の坂東の精兵なり」と書かれた平眞平、菅原行基、源眞清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、橘孝忠、源親季、藤原朝臣時経、丸子宿禰弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方がそうではないでしょうか。これでちょうど20名になり符合します。源頼義が奔走し、結果その任官等の記録が有ったのでその名が知られ「陸奥話記」に記されたように思います。

これをもって、源頼義が武士にとっての権門、武士の統領に近づいたとの見方もあります。例えば東京工大福田豊彦氏など。私はこれを鹿島建設や大成建設のような元請け大手建設会社と建設業界の下請け中小企業のようなものだと思います。

それにしても平、源、藤原の他に、菅原、清原(天武天皇子孫:真人姓)、橘(敏達天皇子孫:朝臣姓)、紀(朝臣姓)、安部、佐伯(散位佐伯経範の一族?)、丸子宿禰、大原(敏達天皇子孫:真人姓)、和気(朝臣姓)などの奈良・平安初期からの貴族の姓が多く見えるところが興味深いです。

安倍宗任

安倍宗任が捕虜として京に着いたあと、ある貴族が、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと梅の花を見せて何かと嘲笑したところ「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて公家達を驚かせまた教養の高さに関心したという話が残っています。(平家物語剣巻)

この安倍宗任は四国の伊予国に流されたあと、1067年に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流。その三男・安倍季任は肥前国の松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る(大夫は5位の別称)。その子孫は北部九州の水軍松浦党となり、なんと安倍晋太郎・安倍晋三親子はその子孫だとか。
また娘は奥州藤原氏2代藤原基衡の妻になっています。