2012.09.29    荻窪1丁目151番地の家  

今の我が家から昔の荻窪の家に自転車で行くとき、五日市街道の春日神社の脇の道を入ります。後々出てくる地図や航空写真の左下の基点になるところです。
このあたりの地名は昔は「大宮前」、今は「宮前」なんですが、その「宮」はこの春日神社からだと長いこと思っていました。でも大はずれ。この五日市街道を 江戸に向かって行くとき、大宮八幡の手前だから大宮前なんだそうです。江戸初期に井口家がこのあたりを開墾したときには、ここ固有の地名なんて無かったん でしょうね。

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その角の右にこの「魚鐘」(うおかね)が。昭和12年からとか。私がこの近くに住んでいた頃は看板は黒地に浮き彫りの金文字だったそうです。う〜ん、覚えていない。いつも閉まっているのでもう廃業したのかと思ったら・・・凄い。

お昼過ぎには・・・バイクでおなじみさんのお宅を周り、その日の注文を聞いてくる。そうして注文を受けた魚をさばいて、夕飯前の夕方に届けに行く、という昔ながらの商いの仕方を、今も守っている。



1947年頃の米軍による航空写真

その角を入っていくと、荻窪小学校北という交叉点が。
北っておかしいだろう、小学校はあの交叉点の左側のはず、ここは荻窪小学校東じゃないか!
と思ったら、荻窪小学校はこの手前の、昔は畑だった場所に移転していたんですね。
平成21年4月に移転だそうです。

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で、この角の今は炭屋山中というお店の場所は、昔は食堂だったと思います。蕎麦屋さん?
テレビがまだ普及していなかった頃、力道山とかの試合中継のときはお店が満員になっていたような。・・・と思ったら妹が「ここはあの頃も炭屋さんよ。お蕎麦屋さんはもうちょっと先」と。
そうだったかなぁ?

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その交叉点を右に曲がると。あれ? 右側は雑木林とか竹藪だったのに。
幼児の頃に母に連れられてその雑木林でおにぎりを食べた記憶があります。
近くをお百姓さんが通りかかって母が胡瓜を分けてもらってそれに味噌を漬けてを食べさせてくれたことも。印象では秋口の頃のような気がしますが。草の上に座らされて母が10mぐらい先のお百姓さんを追いかけていくのをポケーっと見ていたし、2つ違いの妹はその場に居ませんでしたから私がまだ1歳半ぐらいのことだったのかもしれません。私の一番古い記憶です。 
母はそんなこともうこれっぽっちも覚えていませんが、考えてみればその頃の母はまだ25〜6だったことになりますね。

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その先の三叉路を左に曲がったところが、昔は1の151番地。私が10歳か11歳ぐらいまで住んでいた家がありました。角のクリーム色のお宅のあたりは最初は地主さんの畑だったそうです。確かに昭和22年の航空写真には、我が家は有りますがお隣さんは写っていません。そのあと、この御一家が家を建てて。だからその向こう側なんですが。

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ところで、元我が家の斜め前。小川さん家の向かい、このマンションの場所は昔は農家でした。分が広い庭で、その庭で朝摘みのトマトなんかをムシロの上に並べ、近所の住人がそれを買いにに行ってました。当然我が家も。

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その頃のトマトといったら、スッパ! 砂糖をかけて食べたぐらいです。もちろんスッパ!と言いながらそのままかじっていましたが。「それに比べて今のトマトはなんじゃい! あんなものトマトじゃねぇぞ!」。昔を思い出すとそう思ってしまいます。

そうだ、農家の向こう側の生け垣にはグミの木があって、時々それも「スッパ!」と言いながら食べていました。

妹が言うにはここの農家には妹と同い歳の男の子が居たそうです。で、我が家の庭で蜂に刺されて、泣きながら帰って行ったと思ったらニコニコ しながら戻ってきて、おしっこかけたら治ったと言ったと。そんなこともあった気はするけど、ここの子だったとは全く忘れていました。

う〜ん、何処がそうだったんだろう。お隣さんと我が家の間には空き地があって、そこでハコベとか摘んだ記憶が。と思ったんだけど、お隣さんが家を建てる前の記憶?。いや、母と妹の話では、お隣さんは我が家との間にアパートを建てたとか。それが建つ前の記憶かも。

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この角が我が家の端っこの線でした。となると、小川さんの家の隣二軒ぐらいでしょうか。右からグレーの家とクリーム色の家。確か100坪強と聞いていました。

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100坪の敷地って今だと広く感じられますが、戦前からの家は普通それぐらいはありました。農家だと最低でも400坪ぐらいあったような。

祖父は西太后の時代に養蚕の技術指導の為、中国に渡り、その後朝鮮に居ました。なのに何でここに家が? ということになりますが、二番目の妹が父から聞いた話では、戦前に祖父が亡くなったあと、分与された祖父の遺産で父が東京の学校に通うために家を買ったそうです。大工さんだか建築士だかと一緒に売りに出ている住宅を見て廻ったとき、父は別の住宅が良いと思ったんですが、専門家の大工さんだか建築士だかが、こっちの家の方が作りがしっかりしていると言うのでこの家を買うことにしたとか。今で言うと建売りですね。すると施主は地主の宇田川さん?

母の話で家を建てたのは川南の棟梁だそうです。私の子供の頃にはその息子さんが川南で金物屋さんをやっていたとか。この家を売った20年後ぐらいに、車で行ってみたら2階建てになっていました。塀も1階部分もそのままに。平屋の上に2階を継ぎ足せるということは、その大工さんだか建築士だかの見立て通りにしっかりとした家だったんですね。残念なことは写真が無いことです。

敗戦で朝鮮にあった財産はパーになって、残ったのはこの荻窪の家だけです。それも借地で、家だけが我が家のもの。その後だいぶして父が土地を買い取ったようです。

記憶を頼りに家の巾、両脇の敷地の広さを考えると、敷地が横12間、奥行き9間ぐらいです。昔の我が家の間取りはこんな感じでした。母との合作です。昔の家ですから玄関も広いですね。タタキの部分に自転車が2台入れられたとか。入ってすぐ左の部屋だけが洋風で応接間。外装もここだけ洋風でモルタル。二方向に出窓がありました。和洋折衷ですね。

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この図では上が南になりますが、昔の家は縁側が高くて、降りる処には石台があります。縁側が高いということは、床も高く、縁の下には子供なら背を屈めるだけで入れました。時代劇なんかで、忍者が床下に隠れていたりするでしょ。あんな感じです。縁側の巾は普通の廊下の少なくとも1.5倍ぐらいは。

上の妹の話では、二番目の妹がキックスケーター(こんなやつ。当時は木製でしょうが)で縁側で遊んでいたら突然姿が消えたと。要するに縁側から外に飛び出して落ちちゃったんですね。
私の縁側の記憶は、多分上の妹だと思うけど、私と二人でおやつに梨を貰って、私は直ぐに食べて無くなってしまって、幼い妹がゆっくり梨を食べているのを見て「あ〜奪い取って食っちまいたい!」と思いながら絵を描いていたことです。

床の間のある8畳間は祖母の部屋。書院造です。このブログの写真にあるような感じで、右側に違い棚。左が床の間でその右手、南に面したところが出窓のように廊下に飛び出した付書院。

その祖母の八畳間に桐箪笥があり、二番目の妹がその取っ手にぶら下がって遊んでいたら、すっぽ抜けて尻餅もついたとか(本人談)。母に聞いたら引き出しがすっぽ抜けて尻餅もついたんじゃなくて、引き出してあった引き出しの取っ手にぶら下がって遊んでいたら、桐箪笥(って軽い)が倒れて、妹が大泣きしたと。その8畳と6畳の間の欄間は透かし彫りでした。

隣の6畳が私達兄妹。父母は北側(下)の4畳です。4畳って何? と思われるかもしれませんが、4畳半のスペースの角半畳が押し入れになっていたとか。建てた頃(戦前)の感覚では女中部屋ですね(母談)。

戦前にだって女中がいたとは聞いていません。もちろん戦後に私が生まれる頃には女中 など雇える身分ではなく、それどころか左側の4畳半と6畳は下宿にしていました。私にはその記憶はないのですが、妹の話では応接間(洋間)まで貸していたことがあると。

この4畳の母の部屋の記憶。小学校の頃だと思うけど、図工の宿題にイモ版があって、母にちょっと手伝ってもらおうと思ったら母が夢中になってしまって「僕もやりたい〜!」と言っても「黙ってなさい!」と。子供の宿題を取り上げる母親ってどうなんでしょう。ひどいと思いません?フキフキ ""A^^;

風呂は今の感覚からすると広いのですが、その理由のひとつは湯を沸かすのが薪だったことです。風呂桶の脇の風呂釜に薪をくべる作業スペースが必須だったんです。その薪もいつもある訳ではないので、よく銭湯にも通っていました。

その銭湯の場所は・・・、不明です。ただ2箇所に行っていて、ひとつは現環八川南の信号の南あたり。もうひとつは旧荻窪小学校沿いのバス通りにあったと思います。ところが妹達には銭湯の記憶は、ここから引っ越した後の高井戸の銭湯しかないようです。

塀は道側(北川)だけ大谷石で、あとは生け垣です。この当時ここいらの家の塀は生け垣か大谷石で、「粋な黒塀」は鎌倉に住むまで見たことが無かったですね。竹垣も記憶にありません。


下の写真の手前のクレーのお宅とその向こうのお宅が元小島さんの家の敷地だったんでしょう。 

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今は小島さんはここにはいらっしゃらないので書いてしまいますが、妹の話では生粋の下町江戸っ子で、「ひろこちゃん」なのに「しろこちゃん」と言われていたとか。