2.吾妻鏡・大正の研究(和田英松と八代国治)

  1. AZM_10_01.jpg吾妻鏡・明治の研究
  2. 吾妻鏡・大正の研究
    和田英松の「吾妻鏡古写本考」
      −和田英松・純粹の日記(逐次記録)か
      −和田英松・官府の書類か
    八代国治の『吾妻鏡の研究』
      −八代国治・純粹の日記(逐次記録)か
      −八代国治・官府の書類か
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

和田英松の「吾妻鏡古写本考」

史料編纂掛(現:東京大学史料編纂所)に居た和田英松は、1912年(大正1)『史学雑誌』(23-10)に「吾妻鏡古写本考」を発表した。そこで和田英松は、それまでまったく世に知られていなかった吉川本、前田本、伏見本等を紹介しながら、『吾妻鏡』を全て後世に編纂されたものと結論づける。そしてその時期は北条時宗・村政の執権・連署の時代と推定する。しかしその位置づけは「幕府の記録」と考えた。その「吾妻鏡古写本考」の書き出しを紹介しよう。本論考は大正元年10月発表されたものであるが、その後和田英松の短編遺稿集『史学説苑』に収録された。以下ページ数は『史学説苑』による。

余は去る明治四十年の頃より、大日本史料四編、即ち鎌倉時代の初めに於ける史料の編纂に従事したりき。同時代に於ける根本資料とすべき記録の主なものは、公家にては玉葉、明月記等あり。・・・武家の記録にては吾妻鏡以外には依るべきものなく、其古写本は北条本を唯一のものとし、・・・また吾妻鏡脱纂と、脱漏とをも合わせたる校訂本、及び国史大系本等あれど、尚誤脱多く、異義の通ぜざるもの少からねば、博く古写本を蒐集し、之によりて誤謬を正し、遺漏を補足せんと務めたりき。されど此書は古写本極めて希にして・・・、然るに昨年冬の頃、男爵吉川重吉君の好意によりて、吉川子爵家に蔵せらるる古写本を借覧するを得たり。(p325)

それが所謂吉川本と云われるものなのだが、和田英松は以降25ページに渡ってその時点での諸本の解説を行う。この論考の主目的はその部分である。しかしそれについてはまた別の章で見ることとし、ここでは最後の約10ページにある和田英松の編纂年代、編纂者の推定、そして吾妻鏡を史料としてどう評価していたかについて見ていくことにする。

和田英松・純粹の日記(逐次記録)か

全ては追記

AZM_20_14.jpgまず編纂年代である。星野恒はこれまで見た通り、原勝郎は「嘉禄二年(1226年)までは追記の事實を混じたるものなること明なるべし」としたが、和田英松はそれ以降についても「追記」であり、純粋な日記ではあり得ない例証少なからずとする。例えば以下の条である。

  • 1246年(寛元4年)3月14日条
  • 1251年(建長3年)3月6日条、同12月2日条
  • 1252年(建長4年)3月16日条から24日条
  • 1261年(弘長元年)11月1日条

特に1252年(建長4年)3月16日条には鎌倉の事を記し、翌17日条には「三品(宗尊)親王関東御下向の事、仙洞に於いて御沙汰有り。條々今日治定(じじょう)す。」と京での出来事を載せている。更に24日条は、19日に京を出発した新将軍宗尊親王の路次と、前将軍頼嗣の動静とが同日に記されており、これは確かに明解な根拠と言えるだろう。

また『吾妻鏡』は、年月日を追って編年を主としたものではなく、代々の将軍を基として編纂したものであり、各将軍記の首書きはその将軍1代の間の天皇、摂政、関白を記していること。将軍記によって月日の重複が生じていること。具体的には4代藤原頼経将軍記は1244年(寛元2)6月9日まで、5代藤原頼嗣将軍記は1244年(寛元2)5月5日よりで、1ヶ月重複。終わりは1252年(建長4)2月28日まで。6代宗尊親王将軍記は1252年(建長4)1月8日よりで、2ヶ月が重複する。それらから和田英松は以下のように結論づけた。

純粋の日記の体裁にあらず。後の追記に係るものなること事明なれば、此書は、一部のみならず、全部を通じて、編纂せしものなる事疑ふ所なかるべし。此書は、其体裁日記に似たれども・・・、実は将軍により項をたて、巻を別ちたるものにて、将軍の実記ともいふべく、蓋し平安時代に於ける、日本記略、本朝世紀などの如きものなり。(p351)

 

編纂年代は

編纂年代に就いては、以下のように推定する。

此書編纂の年代に就いては、他に徴すべきもの無けれど、其記事によりて推考するに、北条時宗、政村の執権連署たりし頃に成りしものの如く思わるるなり。

そう思う根拠について指摘しているのは以下の点である。

宗家嫡流の人々には往往輩行の下に主の字を添えて、武蔵太郎主などと称せしものありしが、時宗には殆ど相模太郎主、相模太郎殿など、敬語を付せざるはなく、其幼時にては、将軍頼経、頼嗣ぐと同じく、若君の称を用いたりき。政村は嫡流ならねど、陸奥四郎主と記せるもの一二見え・・・、且つ弘長元年二月十一日の条には其子を相模三郎時村主と記したるものあり。此の如く、累代執権連署の中、時村、政村にのみ、特に敬称を用いたるは、最も注意すべきものにて・・・

次ぎに1205年(元久2)6月22日条に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目する。更に建長4年7月4日条にある時宗の妻となる安達景義の娘の生誕記事「号堀内殿是也」にも注目する。この「左京兆是也」は翌年に八代国治が著した『吾妻鏡の研究』でも大々的に取り上げている。そして和田は

かかる類例は、未だ他になき所にして、編者が特に注記したるは、故なきにあらざるなり。されば此書は、最終の文永3年以降、政村の歿したる同十年までの間になりしものと推考せらるるなり。

とする。そして同時に暦仁元年2月7日条に、政村の弟の実泰の子、北条実時を陸奥太郎実時主と書き、更にその子金沢顕時をも弘長元年正月9日条に四郎主と書いてあることを指摘し、北条実時が文学を好み、和漢の典籍を集めて金沢文庫を創建したことなども考え合わせると、北条実時が「此書の編纂に関係ありしものならんか」と推測する。ただし、「編纂に関係あり?」と云っているだけで、北条実時が編纂したとは云ってはいない。

尚、編纂年代については現在では和田の推定よりも更に後の時代とされる。しかし冒頭に引用したように和田は「他に徴すべきもの無けれど、其記事によりて推考するに」としていること、そしてまた、彼にとっての問題は、星野恒や原勝郎が言うように、前半は追記であっても後半は日記として良いのだろうか、という点にあったことも押さえておく必要があろう。

また、星野や原が100%間違っていた訳でもない。確かに後半は「日記」を比較的生の形で、ほとんど手を加えずに、それこそ『吾妻鏡』編纂の為のネタ書、資料集ではないかと思われるぐらいである。むしろ星野や原の研究や指摘を踏まえて、より厳密に分析を進めたのが、和田英松であり、このあとに見ていく八代国治であったと見た方が、全体の流れをより正確にとらえることが出来るように思う。

和田英松・官府の書類か

編纂者は

和田英松はそれに続けて「然らば此書はいかなる人の選びしものなるか」と問いかけてこう云う。

体裁の日記に等しきを見るに、将軍の起居注、幕府の記録などにより、公私の文書、及び諸家の日記等を参取せしものなれば、蓋し幕府の編纂に係りしものにして、政所、問注所などの書吏の手になりしものなるべし。

つまり原の「官府の書類か」問いかけに対して、「官府の書類であろう」と答えたことになる。これは、『吾妻鏡』がどういう状況で、何を目的として編纂が始まったのかという問いかけにも関係する。

目的は

まず「どういう状況で」ということに対し、和田は1250年(建長2年)12月29日条、及び1252年(建長4年)4月5日条をあげる。もちろん和田は漢文で紹介しているが、ここでは読み下し文をあげておこう。

1250年(建長2年)12月29日条
今日、條々施行の事等有り。所謂新造の閑院殿遷幸の時の瀧口の衆の事、関東より催し進せらるべきの旨、仰せ下さるる所なり。仍って日来沙汰有りて。寛喜二年閏正月の例に任せて、各々子息を進すべきの由、然るべきの氏族等に召し仰す。但し彼の時の人数記分明ならざるの間、給う所の御教書を尋ね出らる。

1252年(建長4年)4月5日条
而(しこ)うして、彼の官使下向の饗禄の事、先例を尋ね、その沙汰有るべきの由、評議を経らるるの処、建久記分明ならざるの由、出羽前司(二階堂)行義・民部大夫(大田)康連等これを申すと云々。

二階堂行義、大田康連は共に京下りの下級貴族の子孫で、文筆の家とも呼ばれる幕府事務官僚の家柄である。大田康連は問注所執事、二階堂行義は二階堂行村の子で評定衆であり、出羽守となったことから二階堂氏のこの家系は出羽家と呼ばれ、孫の二階堂行藤は1293年(正応6年)の平禅門の乱のあと政所執事となった。従ってこの記事にある記録は問注所、政所か、あるいはその二人の筆録がそれぞれの家に残されていたものであろうが、ここでの問題は、建長年間(1249年から1255年)でも建久(1190年から1198年)寛喜(1229年から1231年)の頃の幕府の記録は整理された状態では残されてはいなかったということである。文中で「建久記」とあるのは恐らく政所か問注所の当該時期の記録のことだろう。それらのことから和田は『吾妻鏡』の目的を以下のように推測する。

かかれば此書の編纂は、幕府の記録を統一して、先例調査の機関に備えんが為にして、且つは開幕以来、久しく年序を経たるを以て、歴代将軍の実記編纂の必要を生じたるが故にて、泰時の意志を継承せしものなるべし。

的を射ていると思う。「何の為に?」ということに就いて論じたのは知る限りでは和田英松が初めてではなかろうか。そしてそのあとにそれに触れたのは益田宗だけではないかという気がする。五味文彦氏も触れてはいるが、若干文学的に過ぎる気がする。

あとの章の「『吾妻鏡』編纂の意図」の中の「もうひとつの側面」を書いたあとにこれを書いているのだが、私自身も若干うがった見方に傾く傾向があったかもしれない。

原勝郎の「其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず・・・」という疑問に対して和田英松はこう述べる。

但し此書、頼家、頼経、頼嗣、宗尊親王の廃立、及び畠山重忠、和田義盛、三浦泰村の滅亡に関しては、北条氏の為に、或は曲筆し、或は事実を煙減したる形跡なきにあらざれば、之を官府の記録とするは妥当ならずとの論もあらねど、当時幕府の実権は北条氏にありて、将軍は虚器を擁するのみ。執権は君主にして評定衆以下は悉く北条氏の臣僚たれば、此書が北条氏を庇護したるは、寧ろ当然の事にして、恠むに足らざるなり。且つ此書体裁格例の一定せざるものあるは、蓋し一人の手に成りしものにあらざるが故なるべし。

次項の八代国治の処で触れるが、原勝郎はこの和田の論述には反対はしないと思う。

原史料は

原史料として考えたものはまずは政所、問注所等の幕府の記録文書であるが、その他に諸家の記録として、林羅山が『東鑑考』に「又其廣元、邦通、俊兼之筆記亦當混雜而在歟」(廣元、邦通、俊兼の記、叉交じりてこの内にあるべし)」との指摘を紹介しながら、京下りの実務官僚(文筆の家)である二階堂、太田、町野を初め、その他の奉行人、陰陽師等、幕府属僚の筆録も相当に多いだろうと推定し、更に「京都に関する記事には、公卿の日記に依りたるものあり」として、『吾妻鏡』 1208年(承元2)10月21日条と『明月記』の同年9月27日条(「吾妻鏡の京系原史料・明月記」で後述)、 『吾妻鏡』 1200年 (正治2)4月8日条と『明月記』同年3月29日条(「吾妻鏡で顕彰される人々」の北条泰時の項で後述)その他を紹介する。

ただ、和田英松はその『明月記』中の記事の鎌倉伝来について、将軍源実朝の妻の実家の父や兄、つまり坊門信清、坊門信清が「定家の日記を抄写し、六波羅の使者に託して、実朝に通信せしものを、其まま幕府の日記に搭載せしものならんか。」とするが、そういうことがあり得たかどうかはまた別に「明月記の鎌倉伝搬時期」で見ていくことにする。

評価は

 

 

之を要するに、此書は歴代将軍の実録にして、純粋の日記にあらずと雖も、鎌倉時代の中葉幕府が、公私の日記文書によりて編纂せしものなれば、史料としての価値は日記に劣ることあらざるべし。

 

八代国治の『吾妻鏡の研究』

八代国治・純粹の日記(逐次記録)か

その翌年1913年(大正2)、同じ史料編纂掛に居た八代国治は『吾妻鏡の研究』を世に出す。丸々1冊、約200ページの本であるので、おそらくは同僚和田英松と情報交換をしながら、和田英松の『吾妻鏡古写本考』の準備と同時期に平行して執筆していたのかもしれない。尚、以下『吾妻鏡の研究』からの引用は明世堂書店 1941年復刊本でのページ数だけで表す。

八代国治も和田英松が指摘したのと同じく、『吾妻鏡』は年月日を追って編年を主としたものではなく、代々の将軍を基として編纂したものであることなどから、八代国治も「将軍の実録とも称すべきもの(p64)」であり、全てが後世での編纂物(追記)であって日記では無いと結論づける。 

八代国治・官府の書類か

八代国治は『吾妻鏡』の編纂者について「本書の編纂は個人の経営になれる私のものなりや、また幕府の経営になりたるものにして、公書類のものなりやは明らかならず(p65)」と、原勝郎が「北条氏の左右の手になれるもの」「官府の日記にあらざること照々たり」とする理由に一定の理解を示しながら、しかし「詳細に研究し考ふるに及びて、個人の編纂物にあらずして、鎌倉幕府の編纂物なるべしと認むに至れり」(p66)と結論する。

その理由はこれは和田英松も述べたことだが、一個人の編纂とはとても思えず、多くの人の手になるものと判断出来るから、幕府の組織によるものだろうというのである。そして北条氏擁護の曲筆についてはこう述べる。

本書が北条氏を庇護して曲筆し、或は事実を壊滅したる形跡あるは止むことを得ざることなり、本書編纂の当時は幕府の実権は全く北条氏に帰して、将軍は徒に虚器を擁するのみ、加ふるに本編編纂を企てしは北条氏なれば、之が編纂者が、北条氏を庇護して曲筆し、或は事実を壊滅したる形跡あるは、実にやむを得ざるに出しものなるべし。(p67-68)
以上述ぶる所によりて原博士提出の疑問もほぼ解くを得べし、・・・・余は本書を以て、鎌倉幕府の吏員によりて編纂せられたる公書類の史料と認むるものなり。(p68)

和田英松もその前年に同じ見解を示していたことは既に見た通りである。しかしその両者の見解は、形式的には原の主張の否定ではあるが、しかしその内容は原勝郎の思うところとそれほど大きくは離れていないのではないだろうか。原は『吾妻鏡』の曲筆を言い立てたが、その点では八代の以下の記述など、原勝郎よりももっと語気が強い。

本書は将軍の実記なるをもって、将軍以外には敬語を用うべきにあらず、然るに本書は将軍以外北条氏の為にも敬語を用いたり、・・・・頼朝其の兄義平の未亡人に艶書を送り、頼家がその臣足立義盛の妾を奪いしが如き悪事をも忌憚なく書きしに係わらず、北条氏の悪事に至りては、ひとつも之を記さざるのみならず、善事に至りては、如何なる零細の出来事と雖も之を記したり、その例を示せば・・・・・・とありて、泰時幼時の微細なる善行をも仰々しく記したり、殊に若君と書くに至りては、殆ど将軍子息と同等の敬称を用ひたり、又・・・・(p67)

と延々と続くのである。そして更に源頼家に関する北条氏の為の曲筆をまた延々と述べる。和田は「執権は君主にして評定衆以下は悉く北条氏の臣僚たれば、此書が北条氏を庇護したるは、寧ろ当然の事にして、恠むに足らざるなり。」と冷静に述べたが、八代の言は感情的とすら言える。その言を意訳すれば、「鎌倉幕府の吏人の編纂か」と言えば確かに「鎌倉幕府の吏人の編纂」だが、誰の為にと言えば「それは当然北条得宗家の為以外にはあるはずがないじゃないか」 と言っているとしか私には思えない。和田も八代も「鎌倉幕府の吏人」は完全に林羅山いうところの「盖北條家之左右執文筆者」だったと云うのである。

原勝郎はそれに反対するだろうか。原が戦っていたのは和田や八代のような見解に対してではない。原の主張を詳細に読み返せば、原は「承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してよりは、北條氏の左右とても實際は幕府の吏人と異る所なければ、吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきこと」としているのであって、「官府の書類か」を問題にしているのは原以前には「日記」と見られていた前半部分についてなのである。そこについて「鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず」と言っているのである。

つまり、前半が「日記」つまり、逐次記録でないばかりか、その前半の編纂自体が「承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してより」以降であれば、「孰れにても不可なきこと」になるのである。原が「官府の書類か」と問いかけた真意はその前半編纂時期とセットである。承久(1219年)以降どころか、和田英松や八代国治の云うように「北条時宗、政村の執権連署たりし頃」以降とするならば、原も「ならば北條家之左右執文筆者にして鎌倉幕府の吏人の編纂であろう」と言うのではなかろうか。

そしてその「北條家之左右執文筆者にして鎌倉幕府の吏人」を、八代国治は『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)、その中でも三善氏が最も深く関わっていたのではないかとする。(p75)

八代国治は、『吾妻鏡』は決して公家の日記のような一次史料ではなく、参考とした文書には幕府以外の文章も用い、それどころか偽文書まで含み、更に政治史や権力闘争に関わる記述においては「北条氏を庇護して曲筆し、或は事実を壊滅したる」ものであるとする点では、原勝郎よりも更に進んだ検証を行っている。

ただし、その八代の鋭い指摘から約100年が経とうとする現在では若干のニュアンスの修整は起こっている。それは、曲筆は曲筆として誰がその曲筆を行ったのかという点に関してである。八代はその犯人を『吾妻鏡』編纂者としたが、確かに編纂者の手によるものもあるが、一方で編纂者が手にした原史料の中に、既に相当の曲筆が含まれていたのではないかというものである。

 

2008.3.20〜4.28、8.27、9.05-10 、9.18-20、 12.08 追記