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8.吾妻鏡の歴史資料としての価値 |
歴史資料としての価値星野恒星野恒の『吾妻鏡考』(1889年)の全文は読んでいないが、諸研究書(例えば角田朋彦「吾妻鏡研究の軌跡」『吾妻鏡辞典』収録)に見る限り、『吾妻鏡』を幕府記録の嚆矢(こうし)であり、武家制度、法令、政治経済を理解する上で必須の史料と位置づけているらしい。「彼平家物語、源平盛衰記等ノ専ラ潤飾ヲ事トスル者ト、素ヨリ日ヲ同ジクシテ語ルベキニアラズ」として『吾妻鏡』を研究史料の俎板に乗せた点で、『吾妻鏡』研究の出発点ともなったことは確かである。後には色々と批判はされるが、平家物語、源平盛衰記等と同じに扱うべきではないとするところは「まことにもってその通り」といえる。 しかし、星野は源平盛衰記の時代、つまり1185年の平家滅亡までや、源頼家の将軍職退位など、あまりにも明らかな部分以外にはほとんど疑いを抱いていなかったのではなかろうか。原勝郎が『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表したのはそれに対する警鐘だったのだろう。 原勝郎原勝郎は、史料として吾妻鏡の価値は「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」にあるとしてこう述べる。
鎌倉時代の法制史に関しては『吾妻鏡』は多くの資料を提供してくれる(ただし、曲筆以外の問題が無い訳ではないが)。 また、先にも紹介した1912年(大正1)の『足利時代を論ず』と言う論評の中でこうも書いている。
これは原勝郎だけでなく、それ以降の歴史学者の等しく認めるところであろう。 八代国治八代国治は『吾妻鏡』に恨みでもあるのだろうか、源頼家の怨霊が乗り移ったのだろうか、と思いたくなるぐらい『吾妻鏡』を語気強くこき下ろすが、これもまた原勝郎の警鐘の続きであるような気がする。原勝郎が1898年(明治31)に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表してから15年経っても、まだ当時の歴史学会には吾妻鏡絶対主義とでもいうような風潮がかなりあったのだろう。その八代国治は、『吾妻鏡』の価値についてこう述べる。
実はこれが八代国治の『吾妻鏡の研究』の結びの一文にして結論なのである。別に八代国治は『吾妻鏡』を価値無きものといっている訳では決してない。それゆえにこの『吾妻鏡の研究』を真剣に行い、その後長らく『吾妻鏡』研究の定説に成り得たのだと思う。 佐藤進一その八代国治の研究は明治から大正の初期にかけてのものだが、戦後の佐藤進一・池内義資編の『中世法政史料集』(岩波書店 1955年)の態度は、八代国治いうところの「上述の誤謬を糾し、粗漏を除き」という作業が如何に難しいかを物語っている。そこでは「対応資料の見出せない場合には一切吾妻鏡を採録せず、後日の研究を俟つことにした」とする。それは以下の理由による。
もちろんこれは史料の確実性を最大限に重んじた同書の性格にもよるものだが、佐藤進一氏らが慎重になるには理由が無い訳では当然ない。かつて原勝郎が、ここには曲筆は入り込まないだろうとしてその史料価値を認めた「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」についても、意図的な曲筆以外の問題があった訳である。くしくもそのまさに守護地頭のこと、先に顕彰記事に関して紹介した件、大江広元が「守護・地頭」設置を献策し、北条時政がそれを京で後白河法皇に強く要求したという下りである。それは『中世法政史料集』編纂より後に問題提起され、盛んな議論を巻き起こした。佐藤進一氏らが慎重になったのも頷ける。 五味文彦近年『吾妻鏡』の研究で大きな仕事をしたのは五味文彦氏であるが、五味文彦氏は『中世法政史料集』の態度を紹介しながら、それでも『吾妻鏡』は、実に豊かな法令を含んでいるという。(p142 注記1) 近年での五味文彦氏の吾妻鏡研究はそこに係わる取り組みであるが、氏はその書の中でこう述べる。
八代の編年などの推定などいくつかの点は、確かに五味文彦氏らによって修整はされるが、八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかと述べていたが、五味文彦氏の研究においてもほぼ同一の結論に達している。そして「原史料の見通し」、ベースとなる筆録の著者を独自の方法で割り出していった。 五味文彦氏の研究は、八代がその著書の結びとした「鎌倉時代の根本資料として価値を失わざるのみならず、恐らくは之に比敵するものあらざるべし」という方向で、更に具体的に研究と推論を発展させたものといえるだろう。 地理・社会面−北条邸を例に『吾妻鏡』は鎌倉時代の都市鎌倉の研究においてはもちろん、社会経済史、風俗の面からも非常に重要な資料だと思う。その分野では北条氏の利害も、また相論(領地等の訴訟)での証拠書類のように訴訟人の利害も絡まず、従って偽書の心配もない。おしむらくは記述に濃淡があって全てが書いてあるわけではないということだろう。そもそも編者の関心はそこでは無かった為、しかたの無いことではあるが。そういう領域で、『吾妻鏡』が基礎資料としてどのように利用されうるかについて例をあげてみよう。 『吾妻鏡』によると、北条義時は鎌倉中に2つの邸宅を持っていた。その子、北条泰時の本邸は小町西亭である。この位置関係が重要になるので、簡単にその概要をまとめる。 翌1225年(元仁2:嘉禄1)に大江広元、北条政子ら政治上の第一世代が相次いで没し、御所を頼朝以来の大倉から宇津宮辻子へと移す。
その場所について高柳光寿は若宮大路の東側に面し、南に宇津宮辻子(小径)に面し、北は北条泰時の館、東は小町大路に囲まれた敷地の中で、最初の御所(建物)は東側にあり、その12年後に同じ敷地の若宮大路側(若宮大路東頬)、すなわち西側に新造の御所を立て直したのではないかとする。 (1959年『鎌倉市史総説編』 吉川弘文館 4版p168 )
すると、北条泰時の小町亭は北に政所、南に御所と、両方に隣接している。政所の向かい、小町大路を隔てた東側の小町亭には泰時の後見ともいえる叔父時房が居たと推定される。三浦氏の屋敷は政所の北側、現在の横浜国大附属小中学校のあたりである。 北条邸の遷移に見えるものこの布陣は、この時代の北条泰時の鎌倉幕府での位置を如実に物語ってはいないか。地理的にも政所と御所とをガッチリと押さえている。その布陣は、大江廣元、北條政子ら政治上の第一世代が相次いで没した翌年に実施された。北条泰時の狙いは、この御所の移転で、幕府(将軍の館)が大倉にあった時代、源氏三代から、その延長としての北條政子、北条義時の時代とは違う時代が始まったこと、そしてその中心は誰かを疑いようのない形で示したのではないか。 得宗とは北条義時の法名だが、得宗家の時代は北条泰時から始まることを如実に物語っていないか。そうした推察の基になるそれぞれの屋敷、役所の位置はこの『吾妻鏡』を克明に読んでいくことで解き明かされてきた。それらは物語の筋書きに使えるような、従って曲筆も多い政治的動きとは違って、実に地味な、書いている本人にとってはさして意識に留めないような単なる事実にしか過ぎないが、鎌倉史研究にとって重要であるばかりではなく、鎌倉幕府の権力のうつりかわりまでも語ってしまう。 更に泰時から、おそらくは五代執権北条時頼の時代、得宗家の屋敷は、1333年の鎌倉幕府滅亡の日まで、政所の東、小町亭(現宝戒寺から筋違橋)に移る。おそらくは宝治合戦の直後であろうか。そのとき、御所に隣接した旧泰時亭には六波羅探題北方から幕府連署に転じて北条時頼を補佐した北条重時が入り、そこには後に評定所、小侍所が作られた。
宝治合戦の前年に大殿と云われて反北条得宗家の拠り所となっていた前将軍藤原頼経は宮騒動で京に追放されて、宝治合戦で北条得宗家に対抗しうる三浦氏は滅び、千葉氏も勢力を削がれ、この段階では、もはや将軍藤原頼嗣は単なる置物でしかなくなり、その取り合いをめぐって権力闘争が展開されるなどという時代ではなくなったということだろう。 以上、分野によって濃淡はあるが、『吾妻鏡』に騙されないように細心の注意は必要であるが、さりとて『吾妻鏡』を無視して鎌倉史の研究は出来ないのは政治史、権力闘争史においてすら確かである。 2008.3.20〜4.28 |