1.吾妻鏡の研究・明治時代

  1. 吾妻鏡は公式記録か・明治の研究 
    星野恒の「吾妻鏡考」
    原勝郎・純粹の日記(逐次記録)か
    原勝郎・官府の書類か
  2. 吾妻鏡は公式記録か・八代国治以降
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 『吾妻鏡』編纂の背景
  8. 歴史資料としての価値
  9. 吾妻鏡の諸本
  10. 流布している俗説 
  11. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  12. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記

概要

『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代に成立した歴史書。「東鑑」とも書く。編纂時期は諸説あるが1300年頃が有力である。全52巻、ただし第45巻は欠落し、それ以外にも記事の無い年があるり、問題は多いものの鎌倉時代を研究する上での前提となる基本史料である。編纂された当時になんと呼ばれていたのかは不明ながら、金沢文庫に残る書状に「鎌倉治記」と出てくるのがそれではないかとの説もある。その後、少なくとも室町時代の写本は『吾妻鏡』とあり、『東鑑』とも呼ばれるが、これは江戸時代の古活字版の表紙からである。

1180年(治承4)4月9日条の、東国の武士に挙兵を以仁王の令旨(りょうじ)が出され、それが4月27日に源頼朝の居る伊豆の北条館にもたらされたところから始まり、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ばの1266年(文永3)に、鎌倉を追われた前将軍宗尊親王が京都に到着する7月20日の条までの87年間を、武家政権や社会の動きを鎌倉幕府将軍の年代記というスタイルで、貴族の日記と同じように和風漢文で記述されている。

後に述べる北条本をベースとすれば、全52巻の内、15巻までが頼朝を主人公とし、24巻までが源氏三代。残り約半分強の主人公は北条得宗家である。また源氏三代については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもある。最悪なのは頼家将軍記である。そして後半の北条得宗家についてはその善政が高らかに強調される。特に北条泰時にそれが著しい。

範囲としては当初から宗尊親王まで、文永3年で終わる予定であったかどうかは、確たる証拠は無いものの、そこまでの予定であった可能性が高い。ただし吾妻鏡の編纂自体はおそらく未完であったと考えられている。

神奈川県立金沢文庫主任学芸員の永井晋は、五味文彦らとの「有隣」の座談会でこう語る。

「二代将軍頼家と三代将軍実朝の代の記述は、内容の緻密さはともかく文章としては短く詰まって、練り上げられている。 ところが一方では、宗尊親王のところのように綱文に史料をつけただけという状態のところもあります。 これは考え方ですが、編纂が最後まで進んだものと途中でストップしてしまったものと、かなり進行段階で違うのかなという気がする。 多分、冒頭の部分から書き始めているんじゃないだろうという気がするんです。」

 

吾妻鏡は公式記録か・明治の研究

以下に歴史学においてこの『吾妻鏡』がどう評価されてきたのかを見てゆく。明治大正初期の論文では、「日記」とは「逐次記録」の意味、「追記」は「後年の編纂」と置き換えて読んでほしい。

星野恒の「吾妻鏡考」

日記形式で記述されていること、また吉川本の巻末に「此関東記録(号吾妻鏡)者、為文武諸道之亀鑑」とあることも手伝って、かつては鎌倉幕府の公式記録と考えられたこともある。

明治時代の歴史学者・星野恒も1889年(明治22)の『吾妻鏡考』で以下のように述べる。星野恒はあの「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル」を唱えた人。

文體ヲ審ニスルニ前後詳略アリ前半ハ追記ニシテ後半ハ逐次續録セシニ似タリ

ただしその前半と後半の境を何処に求めているのかは判然としない。しかし以下の文面から察するにかなりの部分を貴族の日記同様のリアルタイムな公式記録ととらえていたかに見える。

治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記ナリ。編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ

叙事確實質ニシテ野ナラズ簡ニシテ能ク盡クス頼朝ノ天下經營ノ方略北條ノ政柄攘竊ノ心曲等描寫ニシテ其顛末を具備セリタヾ頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書して諱マズ

星野恒の功績は『吾妻鏡』を歴史学の資料として俎板に乗せたことだろう。しかしその態度は現在の時点からすれば、無批判にそれを受け入れる傾向が強く見られたのだろう。星野恒の『吾妻鏡考』から9年後の1898年(明治31)に原勝郎は、『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表し、その冒頭において、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調する。

そして「鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか」として、性急な評価に警鐘を鳴らし、「(1)吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や」 「(2)吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか」と、設問する。

原勝郎・純粹の日記(逐次記録)か

まず、「吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や」との設問については、については、遠く離れた地方で起こったことが当日の条に記述され、明らかに後世でなければ書けない部分も記事の中に散見されることを具体的に例あげて指摘する。そしてすくなくとも1226年(嘉禄2)以前は追記(後世の編集)であって決して日記(リアルタイムな記録)ではないとした。

吾妻鏡は少くも嘉禄二年までは追記の事實を混じたるものなること明なるべし、今假りに嘉禄二年を以て追記と否との經界と定むるときは、此年は吾妻鏡が筆を起せる治承四年より算すれば四十七年目にして、此書を載する所の記事が八十七年に亘るよりして考ふれば、年數に於ては先中頃とも云ふべければ、星野博士が前半は追記なりと云はれたるは、至當の言なるべし。

上記の引用部分の最後はどうもそれが本心とは思えない。星野恒が「前半ハ追記ニシテ」というその「前半」の範囲を具体的にどこまでがとは述べていないものの、「頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書して諱マズ」とし、大部分は「逐次續録セシニ似タリ」であると言っているのだ。原勝郎の本心はそれを否定するところにあるのだろう。原勝郎が、それ以前を追記とした1226年(嘉禄2)が鎌倉時代の中でどういう年であったかを見てみよう。

  • 1219年(承久元)に3代将軍・源実朝が公暁によって暗殺され、源氏三代が終わり尼将軍の時代となる。
  • 1221年に承久の乱があった。
  • 1224年(元仁1)に北條義時が没し、京の六波羅探題に居た北条泰時と叔父の北条時房は大急ぎで鎌倉へ戻り元服前の藤原頼経を確保する。
  • 翌1225年(元仁2:嘉禄1)に大江廣元、北條政子ら政治上の第一世代が相次いで没し、御所を頼朝以来の大倉から宇津宮辻子へと移す。 そして評定衆を創設して、本来将軍家の家政機構たる政所の権限を縮小する。
  • 問題の1226年(嘉禄2)とは、それらの準備が整ったその翌年、藤原頼経が元服して4代征夷大将軍となった年である。

本当の北条執権時代はそこからともいえる。そしてそこまでが鎌倉幕府創成の、そして本格的な執権政治の具体的な準備であり、『吾妻鏡』のもっとも重要な部分といえる。『吾妻鏡』の史料価値の7〜8割はその部分にあると云っても過言ではないだろう。そこを「日記ではない」とされたら『吾妻鏡』を「鎌倉幕府ノ日記ナリ」とはいえなくなる。

原勝郎・官府の書類か

第2点目は、星野恒が、編纂者を「幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ」としたことに対する検証である。

吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきことなれども、其上半即比較的價値の大なる部分を考察する時は、官府の書類としては少しく詳細に過ぎ冗長の嫌あるのみならず、其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず・・・

この疑問が原勝郎のいいたいことの根幹なのではなかったか。原勝郎は江戸時代初期の林道春(林羅山)が『東鑑考』(*1)において「盖北條家之左右執文筆者記之歟」と述べていることを紹介しながらこう結論する。

吾妻鏡の北條氏の爲に辯護し屡曲筆に陷ること如此なるよりして見れば、余は之を以て幕府の公書類となすよりは道春の考證に從ひて北條氏の左右の手に成れる者となすの穩當なるを信ずるなり。

原勝郎はそれから14年後の1912年(大正1)、『足利時代を論ず』と言う論評の中でもこう書いている。

其吾妻鏡なるものも、其中で最も面白い部分は前半である。而して此前半は、吾人の見を以てすれば、後代の編纂物であって、どう見ても或史家の云ふ如き、正確な官府の日記とは、受け取れない部分である。

「或史家」とは星野恒のことだろう。角田朋彦氏は「吾妻鏡研究の軌跡」(『吾妻鏡事典』p300)において、「原氏は星野氏を継承・批判しながら」と述べるが、どうみても中心は批判だと思う。「継承」と見える部分は先学に対する紳士的な態度によるもの以上ではないのではなかろうか。

 

(*1)「東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟」
八代国治の『吾妻鏡の研究』によると林羅山は家康の為に重要な記事を抄出して上下2巻のダイジェスト版を作る。この当時、学者として吾妻鏡の第一人者と目され、吾妻鏡北条本を家康に送ったとされる黒田如水は1617年(元和3)9月に家臣を羅山の元へ遣わし、吾妻鏡を読修させ、その家臣が帰るときに書き渡したのが『東鑑考』であり、漢文325字の書司情報のようなものである。全文は八代国治の『吾妻鏡の研究』(p7)にある。しかし、黒田如水とあるのはに如水の子黒田長政の間違いではないだろうか。黒田如水の遺品として北条本が1604年(慶長9)に家康に贈られたのだから元和3年に如水はこの世に居ない。

尚、そうは言ってもこの林羅山の卓見は江戸時代には浸透せず、江戸時代の学者のほとんどはこれを「鎌倉幕府の日記」と理解していた。宮地仲枝・大塚嘉樹は例外中の例外である。

 

2008.3.20〜4.24