付2.2 吾妻鏡の諸本

  1. 吾妻鏡・明治の研究AZM_10_22.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

<付論>

  1. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  2. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記
  3. 龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」
  1. 室町時代の吾妻鏡 
  2. 吾妻鏡の諸本
    北条本 京都図書館本 黒川本
    吉川本 
    島津本(吾妻鏡脱漏)  毛利本 その他 
  3. 江戸時代の吾妻鏡研究
  4. 流布している俗説
  5. 参考文献

 

吾妻鏡の諸本

北条本

現在もっとも一般的なテキストである1933年(昭和8)の『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)の底本となるものは北条本と呼ばれ、小田原の後北条氏が所蔵していた写本とされていた。北条本と呼ばれた訳は、1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、小田原開城の交渉において折衝にあたった黒田如水に北條氏直が贈ったものを、後の1604年(慶長9)に如水の子黒田長政から徳川家康(本当は秀忠)に献上されたものと言われてきたためであるが、しかしその通説は現在では否定される。

家康が収集し、活字本開版の原本に利用されたものは、家康没後江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在は内閣文庫所蔵で重文である。そこに現存するものは、楮紙の古い料紙の32冊と、楮紙の古い料紙に修善寺紙を用いた補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊、そしてもっとも書写年代の新しいと思われる白紙に近い紙8冊の51冊(巻)からなる。その元になる42巻(修善寺紙による補入が施される以前のもの)を八代国治は、黒川本(和学講談所本)と同様に、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に文亀年間(1501〜1504年)に書き写したものと見ていた(八代 p28 これについては後述)。

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内閣文庫所蔵『吾妻鏡』巻22 右がオリジナルの楮紙、左が補入された修善寺紙

現存する原本を見ると、古い2種類の料紙(楮紙と修善寺紙)の43冊に含まれる系図部は文亀年間(1501年から1503年)に書かれ、享禄〜天文年間(1528年〜1554年)に追筆がなされている。その43冊の中で、古い楮紙のページに校訂の跡があり、修善寺紙で補入したページは別の写本よりの書写と思われ、そこには更に別の写本からと見られる校訂がなされている。

家康による古活字本開版の準備は、黒田長政から北條氏直が所蔵していた『吾妻鏡』が二代将軍徳川秀忠に贈られる前年の1603年(慶長8)には始まっていることから、高橋秀樹氏は白紙に近い紙8冊を除くこの43巻を家康はそれ以前、おそらくは慶長以前に一括して手に入れていたと推定している(「内閣文庫所蔵「吾妻鏡」(北条本)の再検討」『明月記研究』5号 2000年、「吾妻鏡の諸本」 『吾妻鏡辞典』p296 2007年)。おそらくは楮紙の古い料紙の42巻の、巻の中にも欠落の相当ある写本(つまりその段階で既に寄り本)を手に入れた者が、更に収集を重ねて10巻に修善寺紙を用いて補入、更にオリジナルの楮紙の写本段階では無かった1巻を同じ書式で写本したのだろう。

それを手に入れた徳川家康が、更に欠落部分の収集に努め、それまで入手していたものと同じ書式で書き写させていたものが白紙に近い紙の巻である可能性が高い。その家康の収集分は黒田長政献上のものを含めて8巻となり、計51巻を1605年(慶長10)印行の底本としたと推定される。尚、その8巻とは7、24、25、38、39、41、42、52巻である。

相国寺に年代不詳の家康の手紙が残っており、そこに「52巻中3巻が無いが他は全部ある」と記してある。この手紙が1604年(慶長9)3月の黒田長政献上以前であれば、後北条氏所持の『吾妻鏡』は欠けていた3巻中2巻を補うものであったに過ぎず、逆に手紙が黒田長政の献上以降であれば、黒田長政献上本は最大6巻を補い、それでもまだ3巻が欠けていて、翌年の1605年(慶長10)印行までに欠本2巻を入手し版木に廻したということになる。何れにせよ後北条氏所持の『吾妻鏡』は白紙に近い紙の巻に書式を揃えて書き写されて、物としては残っていないことになる。

尚中村孝也氏の『徳川家康文書の研究』 (1960年)によればこの手紙は1604年(慶長9)6月とされる。

黒田長政が『吾妻鏡』を献上したというのは「寛政重修諸家譜」の黒田家提出の系図の黒田長政の箇所に「九年(慶長)三月父が遺物備前国長光の刀、木丸の茶入を献じ、台徳院殿(秀忠)に東鑑一部を奉る」とあるのみで、何巻だったのかなどは記されていない。

益田宗氏は、「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』 1977年)の中で「いわゆる北条本はどこまで北条本か」との章をたて、「いわゆる北条本」は、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在に伝わるその中には、後北条氏から黒田如水に伝わったものから書き写した巻は有っても、献上された現物自体は含まれていない可能性が濃厚であるとする。今日「北条本」と言われるものは「いわゆる北条本(以下北条本と略)」に過ぎないとする。こうして整理してみると確かにそう言えるだろう。

尚八代は北条本と家康本をとりあえず別物として扱っている(p31)。どうも1605年(慶長10)印行の伏見版の元になった現在の国立公文書館蔵のもの全部が1604年(慶長9)に黒田長政から徳川秀忠に献上されたものと思っていたようである。

AZM_10_26.jpgその古活字本には3種類あるが、最も有名なものが1605年(慶長10)印行の伏見版であり、外題・版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文がある。「東鑑」とも呼ばれるようになったのはここからである。

他は慶長元和間刊のもの、寛永版は1626年(寛永3)に慶長活字版を元に、管聊トが難解な文を訂正し、カナを符って『吾妻鏡』の普及を目指したものである。林道春(羅山)の跋文により『吾妻鏡』の由来を理解できるようになっている。本文の部分は同じ版木を用いて、刊記の部分だけ差し替えた野田庄右衛門板行の寛文版は少なくとも100年以上に渡って印刷が続けられていた。

尚、『新訂増補国史大系』はこの北条本を底本としながら、島津本からと見られる「吾妻鏡脱漏」を加え、そして吉川本も校合に用いた。

京都図書館本(広橋本)

元広橋家の所蔵、ほとんど北条本と同じで、巻によっては行数も字数も北条本とまったく同じことがあるという。北条本より書写したものと思われている。51冊が現存。高橋秀樹氏の「吾妻鏡の諸本」によれば、北条本が完成した1604年(慶長9)以降、最初の書写であろうとする。

黒川本

AZM_20_06.jpg『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂の蔵印がある。目録の終わりに「応永11年甲申(1404年)8月25日金沢文庫御本書之」とあり、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に書写したものと推定される。

ただし、北条本とは僅かに異なる処もあり、北条本からの書写ではなく、共に応永11年の古写本からの書写であると見られている。52巻25冊が現存し八代国治もそれを分析したが、関東大震災 で焼失したという。従って明治以降では八代の『吾妻鏡の研究』が唯一黒川本の状態を伝えるものとなっている。

吉川本

AZM_20_01.jpg吉川資料館蔵、重文。現在では吾妻鏡の最善本と目されている。大内氏の重臣陶氏の一族、右田弘詮(陶弘詮)によって収集されたものである。

右田弘詮(陶弘詮)は文人としても知られ、宗祇猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交があった。弘詮はそれら文化人から「吾妻鏡と号す」「関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていたがなかなか目にすることが出来なかったという。しかし1501年(文亀元)頃、その写本42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。それは1180年(治承4)から1266年 (文永3)と、現在知られる範囲ではあったが、尚その間に20数年分の欠落があった。

このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または諸国遊楽の人に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至まで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。1523年(大永3)9月5日のことである。その後書きにはこう記されている。

望む人ありといえども、かつて披見を許すべからず。暫時たりといえども室内を出すべからず。いわんや他借書写においておや。もし子孫において、この掟に背かば、不孝深重の輩となすべし。

その後、毛利元就の子、吉川元春の手に移り、以降吉川家に伝えられた。記事に欠損はあるが、密度は北条本より多く高い。嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)は吉川本においては1冊であるが、北条本にはその目録にすらない。具体的には北条本には無かった島津本による『吾妻鏡脱漏』部分を吉川本は全て含み、それ以外にも日の単位で数百箇所が吉川本のみにある。(ただし北条本にあって吉川本にない年もある。)

和田英松は「吾妻鏡古写本考」(1912年)において、北条本系を中心とするそれまでに知られていた『吾妻鏡』はいづれも節略本であるとし、吉川本の方がより先のものをベースとした写本と推定した。ただしそれは後半の部分を指しており、前半部分においては殆ど一致する。 (八代国治 「 北条時頼の廻国説を論ず」(『歴史地理』第22巻第2号.1913年(大正2)) 

その節略された部分、北条本と吉川本、島津本(『吾妻鏡脱漏』)の差分は祈寿祭礼に関する記事が多い。それらの事から八代国治は和田英松同様に「吉川本は稿本にして、北条本は修正本にあらざるかと考察するものなり」(p45) としてその具体例を健保2年4月23日条を紹介する。そして差異の全体を振り返りこう述べる。

八分までは椀飯の剣役、及び天変地異等にして、その他の二分が法制風俗に関する記事なり。・・・後世の節略も少なからざるべしと雖も、編纂者が修整して増補削減を加えたるもの亦(また)多かりしなるべし、或いは本書は未定稿のまま世に伝わり、節略増補せられて数種の異本となりしものか、いずれにしても史料としての価値は、斧削を加へざる吉川本に多きことは明らかなり。(『吾妻鏡の研究』p57)

尚、和田英松、八代国治の上記の説、吉川本は稿本、北条本は修正本(編集が進んだ段階)との説は、その後の研究、例えば益田宗以降では否定的である。一見そう見える、ということはあっても、そうだと言い切る確たる証拠はなにもない、調べれば調べるほど淡い期待は史料の現実に裏切られてゆくということか。

しかし、吉川本が『吾妻鏡』の最善本ではあるらしく、エピソードの類だが、1209年 (承元3)5月5日条は現在の国史大系では「出羽の国羽黒山の衆徒等群参す。これ地頭大泉の次郎氏平を訴える所なり」となっているが、元の北条本には「羽黒山」は「里山」とあり、研究者は苦労してそれを羽黒山のことではないかと推測していたところ、吉川本ではあっさりと羽黒山と記されており、北条本の誤記であったことが確定したりしている。
また1行以上の脱落のある部分は吉川本からかなり復元出来たという。今日、『吾妻鏡』の最善本は吉川本であるとされるのはそうしかことの積み重ねなのだろう。

島津本(吾妻鏡脱漏)

島津家文書の一部として国宝に指定されている。高橋秀樹氏は『吾妻鏡事典』に寄せた「吾妻鏡の諸本」の中で、15世紀末に二階堂氏から島津氏に進上されたものを元に、島津藩において更に収集と補訂が行われて成立したと見ている。『吾妻鏡』編纂者のひとりとして考えられる二階堂氏の一族の「二階堂文書」に、15世紀末に「御先祖之儀吾妻鏡以下古記明鏡之次第」を写し送ったとあるからである。ただしこれは「吾妻鏡以下古記明鏡」をごっそりと原本を渡したとは書いていない。ここにどれだけ重きを置いてよいのかわからない。

「御先祖之儀」とあるので、「吾妻鏡以下古記明鏡」を持っている二階堂氏に島津修理亮入道が「うちの祖先がどう書かれているか書き写して教えてくれない?」と依頼しただけなのではないだろうか。要するに「抽出・零本」を依頼しただけなのではないだろうか。ちょうど『吾妻鏡』編纂者が『明月記』の所有者に対して依頼したように。しかしそのことに関する議論も論証はあるのかどうか、私には不明である。尚、「二階堂文書」とこの書状の書き手の二階堂行二については既に触れた通り。

原本は1650年(慶安3)に幕府に献上されたがそちらは行方不明であり、島津家に残るものはそのときの書写本であるとされる。国史大系本の黒板勝美の「凡例」には「島本 島津公爵家所蔵本」とあるので国史大系本で巻数の代わりに「脱漏」とある部分はその書写本ということになる。

幕府に献上された島津本は徳川家所蔵の所謂北条本に欠けていた部分を多く含み、その差分が1668年(寛文8年)『吾妻鏡脱漏』として、その翌年には『東鑑脱纂』として木版で出版された。その差分は祈寿祭礼に関する記事が多いという。

八代国治は、『吾妻鏡脱漏』が北条本と島津本の差分全てを収録したか、それともそこでも省略をした結果なのかは分明ではなく、もしも省略をしたのなら島津本と吉川本は同系列、または同じものといえるかもしれない。そうであれば吉川本も島津本同様に二階堂氏が所持していたものの系統かもしれないが、現物を見ることができないので何とも、と書く。(p38)

それならば見に行けばよいじゃないかと思ったら、『続群書類従』などの編纂に携わった江戸時代末期の塙忠宝の『所目抄出』でも所在不明とされていて、八代が書いた20年後の1933年に丸山二郎の『吾妻鏡諸本雑考』により初めて実物が紹介されたものらしい。

嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)は北条本にはその目録にすらないが、島津本には巻26の後半に収められている。ただし、益田宗氏(p324)によるとその直前に、以降嘉禄元年から安貞元年の2年分は無いと書かれていることから、北条本同様に巻数も振られずに欠落していたものを、後から他の写本で補ったものと見られる。その3年分は吉川本においては1冊(巻)をなしている。

八代国治の『吾妻鏡の研究』の巻末に「吾妻鏡諸本異同表」があるが、前述の通り八代の時代に見ることが出来たのは『吾妻鏡脱漏』であり、島津本そのものではなかった。

八代国治は関西伝来本としたが、しかし1953年の村田正志氏の研究により応永年間の金沢文庫本からの書写本の系統との説が有力となった。 1953年当時なら金沢文庫本はいわゆる北条本をイメージしているのだろう。

その『国史学』 53号を見てみたいものだがまず手には入らないだろう。『村田正志著作集第5巻』 国史学論説 (1985年) に収録されているそうだが高くて手がでない。

ところで、和田英松の頃から言われていた金沢文庫本は簡略本で、吉川本は詳細本系と言われてきたが、島津本が金沢文庫系だとすると、金沢文庫本の系統の中で簡略本も詳細本も両方あるということになってしまう。八代国治も関東での室町時代の記録に、『吾妻鏡』には簡略本と詳細本があると記されたいることを紹介しているが、こうして『吾妻鏡』の初期の本文系統論はほとんど崩れ去ってしまっているといえる。先に和田英松・八代国治の、吉川本は稿本、北条本は節略本・修正本(編集が進んだ段階)、との説を誰も採らなくなったことを紹介したが、それはこうした新たな事実(?)によるものだろう。

 

毛利本

島津本と同系のものに、毛利本がある。毛利本には1596年(文禄5)3月11日付けの大徳寺の宝叔宗珍の書写奥書があり、宝叔宗珍から毛利藩に譲られたと思われる。島津本と同系ではあるが、島津本よりも書写年は古く、そこからの転写ではない。と言っても島津本原本は1650年(慶安3)に幕府に献上され行方不明。残る書写本との比較だろうか。

1958年の福田栄次郎氏の研究によれば応永年間(1394〜1427年)の金沢文庫本からの書写本の系統であるらしい。とは言っても、現在の毛利本の全ての巻がという訳ではなく、中には江戸時代初期、慶長の古活字版からの書写も混じっている(益田 p323)。現在は明治大学図書館蔵。

その他の抄出本系
  • AZM_20_04.jpg 前田本は加賀の前田家に伝わるもので、巻子本1巻。応永13年(1406年)の奥書をもつ『山密往来』の紙背文書だが、現在は吾妻鏡を表にした装丁がされている。1184年(寿永3)4月6日から同年12月16日までの記述の抄出がされている。吾妻鏡の書写の時期は鎌倉時代末期から南北朝時代、あるいは室町時代の初期とする説があるが、いずれにせよ14世紀頃であり吾妻鏡の写本としては現在最古のものとされる。吉川本に近い記述である。現在は前田育徳会尊経文庫蔵、重文。
  • また、前田家には包紙上書に「文治以来記録」と書かれた1187年(文治3)から1226年(嘉禄2)までの間の、流鏑馬など武芸に係わる記事43日分を抄出したものも残されている。
  • 伏見宮本は伏見宮家に伝わった1450年(宝徳2)の仮名暦の紙背文書で17日分の記事の抄本。吉川本に近い。
  • 三条西本は、室町時代後期の三条西公条筆とされ、50日前後の記事を2種類有し、その間には重複もある。北条本の原型からの抄出本の可能性が高い。
  • 清元定本は4冊計106丁からなり、その第4冊目には1482年(文明14)の「朝散大夫清原元定」の奥書がある。本文は吉川本に近いが、部分的には島津本に近いところもある。

その他室町時代までのものでは西教寺本がある。


2008.3.20〜5.6、9.5、9.16、9.23、10.14 11.23、2009.2.11