11.吾妻鏡の周辺・嘉元の乱 

  1. 吾妻鏡は公式記録か・明治の研究
  2. 吾妻鏡は公式記録か・八代国治以降
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 『吾妻鏡』編纂の背景
  8. 歴史資料としての価値
  9. 吾妻鏡の諸本
  10. 流布している俗説 
  11. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  12. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記

1305年(嘉元3)4月、嘉元の乱

「北条宗方の乱」、「嘉元三年の政変」とも言う。

4月22日、既に執権職を退きながらも実権を握っていた北条貞時の屋敷で火災があり、貞時は従兄弟で執権であった北条師時の屋敷に移る。

この両屋敷がどこだかは解らないが、貞時は北条時宗の山内の屋敷を引き継いだとすれば、山内東亭か。師時は執権なので小町西亭(旧泰時亭)か、小町亭(現宝戒寺近辺)と想定すればこの事件の推理には好都合なのだが、実際にはどこだか解らない。

その翌日、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、屋敷一帯は炎に包まれた。その12日後、引付衆一番頭人で寄合衆と思われる北条宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司で寄合衆と思われる北条宗方を追討、宗方は佐々木時清と相打ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたりか)にあった宗方の屋敷には火をかけられ宗方の多くの郎等が戦死した。

かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものされたが、その解釈は南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年5月8日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。しかしつぶさに見ていくと、独裁政治と云われる得宗家内部は決して安定したものではなかったことが覗える。

事件は4月23日に起こる。『保暦間記』では「仰ト号シテ夜討ニシタリケル」。『鎌倉年代記裏書』では「左京権大夫時村朝臣誤りて誅されおわんぬ」。孫の北条煕時はかろうじて難を逃れたが、葛西ヶ谷(宝戒寺の東、東勝寺跡の近辺)の時村亭一帯は出火により消失。

京にもたらされた情報

これを京に居て、関東(鎌倉幕府)からの早馬で知らせを受けた側の当時の記録を見てゆくと、早馬がもたらした京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の4月27日条)、 「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」である。執権に次ぐ連書を「誅す」のは北条貞時以外にはあり得ない。謀反人により殺されたのではない。

金沢文庫に残る5月16日の「倉栖兼雄書状」によると、北条時村の姉妹を祖母にもつ金澤貞顕が探題であった六波羅探題南方では、このあと「京中連々騒動す。御内の若輩、また或いは弓箭を帯び、或いは甲冑を隠し宿直す。侍所に仰せ、当番の外祇候すべからざる由、禁制を加えられ候と雖も、漫に隠居す。恐怖の膓、肝を焼き候き。仍って御内と云い、京中と云い、此の如く嗷々す。」という状態だったらしい。30年前の二月騒動の記憶が蘇ったのだろう。1272年(文永9年)2月11日に鎌倉で北条時宗によって名越時章・教時兄弟が、続いて同月15日には京都で北条時宗の兄、やはり六波羅探題南方であった北条時輔がそれぞれ誅殺された事件である。

そのあと5月7日の夜の子の剋(午前0時頃)、関東(鎌倉幕府)から飛脚が到着し、鎌倉の執権北条師時 からの「関東御教書」が届く。その内容は、細川重男氏の読み下しによると、「駿河守宗方、陰謀の企て有るにより、今日(午刻)誅されおはんぬ、その旨を存ずべし、かつがつこの事につき、在京人ならびに西国地頭御家人等、参向すべからざるのよし、あひ触れらるべし・・・」。つまり北条宗方の陰謀であったので宗方が誅されたと。

先の5月16日の「倉栖兼雄書状」の続きには、「・・・爰に今月七日夜(子の刻)駿州(宗方)御事、御使上洛の間、造意此の如く露顕するの上は、世上自然静謐す。別して天下の為、殊に御内の為、悦ばざりべからず候」と、また5月15日に金澤貞顕が、金沢文庫・称名寺の二代長老明忍房剱阿に送った書状にも、「殊に京兆(北条時村)の事、誤って夭(わざわい)に逢われ候の条、歎かざるべからず候か、然れども造意既に露顕の上は、天下定めて無為に属さしめ候か・・・・」とあり、金澤貞顕の居る六波羅探題南方の、いつ襲われるかという戦々恐々からやっと解放された安堵の様子がひしひしと伝わってくる。

ところで、5月4日に宗方が「誅せられ」という、その状況が『実躬卿記』5月8日条にあるらしい、5月4日に、時村殺害は宗方の命令であるという噂に対処するため、貞時が師時亭で評定を行っていたところに宗方が「推入来」したため、北条貞時は佐々木時清を使わせて「暫不可来臨之由(暫く来ないで欲しいと)」 と伝えようとしたが、「打合、共落命」してしまったという。(これは直には読んでいない)

その間の状況

京の公家や六波羅探題の情報はこれ以上持っていないので、後世の鎌倉側の記録に戻るが、『鎌倉年代記裏書』によるとこうある。

5月2日:時村討手の先登の者十二人首を刎ねらる。 和田の七郎茂明(預 三浦の介入道・・・) 茂明逐電しをはんぬ・・・・

5月4日:駿河の守宗方誅せらる。討手陸奥の守宗宣、下野の守貞綱既に攻め寄せんと欲するの処に、宗方は殿中(師時の舘、禅閤貞時同宿)の騒擾を聞き、宿所より参らるるの間、隠岐の入道阿清(佐々木時清)宗方の為に討たれをはんぬ。宗方が被官処々に於いて誅せられをはんぬ。・・・・

つまり、4月23日に「仰ト号シテ」連署北条時村を「夜討」した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、10日もたってから「此事僻事(虚偽)なりければ」と斬首された。和田茂明は三浦和田一族の生き残りの末裔、越後の中条茂明(なかじょうしげあき)のことで、三浦氏が預かっていたなら三浦氏が逃がしたのだろう。それは良いが、この中条茂明の子孫の中条房資が1454年(享徳3)に子孫に書き残した11ヶ条の文書が有名であり、そこから鳥坂城(鶏冠城)の由来が解るのだが、それはおいといて、その後中条茂明はそのままその所領を統治している。罰せられた形跡などない。

実は誅殺しておいてあれは間違いだったというのは頼朝のときからあった手口である。つまり頼朝は梶原景時に命じて上総介広常を殺したが、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)正月17日条で広常がよこしまな心はもっていなかったことが明らかになり、その一族は赦免されたという件である。ただし広大な所領は返さなかった。これは最初から予定の行動だったと言われている(誰が言ったかは忘れたが)。もうひとつは北条時宗が二月騒動で名越時章・教時兄弟を殺したときである。このとき時章追討は誤殺であったと言われ、事件後、得宗被官の追手5名が処刑されている。

それによって名越北条氏は反時宗派の時章・教時兄弟を失っても、勢力は削がれたと言っても家は残り、その子孫はこの鎌倉時代後期・嘉元の乱の頃においても幕府に一応の要職をしめている。要するに追手の処刑は残った者との手打ち、顔を立てるようなものであり、討たれた方は「そんなつもりは無かった」と言われてもそれを信じる訳ではないが、ともかくは面目を保て、家も残るので良しとしよう、というようなものである。

事態の収拾

貞時の父、北条時宗はそれで反対勢力の力を削ぎ、勝利したが、この嘉元の乱ではそううまくは行かなかったというのが、『実躬卿記』にある「時村殺害は宗方の命令であるという噂に対処するため、貞時が師時亭で評定を・・・」という下りが現しているのではないだろうか。そして北条庶流の実力者大仏宗宣によって北条宗方は討たれたとも読む事は出来る。あくまで推論に過ぎないが、すくなくとも『保暦間記』の語るところよりはまともな推論ではなかろうか。

その翌月、幕府の評定(それとも寄合か)が貞時の貞時の山内邸で再開されたが、貞時も、宗方討伐の大将であった一番引付頭人北条宗宣もその評定には出席せず、幕府は機能停止状態であったと6月10日付けの「禅海書状」(『高野山文書』「叉続宝簡集 78)にあるそうである。また、そこには「尚逐日可有合戦之由」と、再び合戦が起こるという風聞もあったようである。そして更に翌月の7月22日に、宗方討伐の大将北条宗宣が殺された北条政時の後任として連書に就任する。

それから3年後の1308年(徳治3)8月の「平政連諫草」には、「天下の珍事国中の大体は併せて成敗にあり、怠慢なかるべし、随ってまた評定の大事はなを御出仕をまつ」「毎月御評定の内五ケ日、御寄合二ケ日奏事六ケ日ばかりは、闕かさず御勤仕あらんの条、強いて窮屈の儀なからんか」(安田元久 「平頼綱と長崎高資」)と幕政への精励を要請、というか苦言を呈している。その次ぎには「早相止連日酒宴、可被催暇景遊事」と、これはもう苦言のレベルではなくお小言だろう。

尚この幕府奉行人平政連は「中原(平)政連」と書かれている処もあり、どういう人物なのかよく解らない。

安田元久氏は、「本来ならば、公的な幕府の政治体制を破壊するようなこうした要請が公然となされ、また多くの支持を得る筈はなかったのである」と、それを得宗体制確立の積極的な証拠とされている。得宗専制体制は確かに北条貞時の代に最も象徴的ではあるが、しかし、一旦『保暦間記』を忘れて、リアルタイムな京の記録からこの事件を見直していくとき、安田氏の論ずるところと、また別のものが見えてきはしないか。

仮説

ここで仮に、この嘉元の乱を、貞時の作戦とその挫折と捉えたら、その前後が全てつながってきはしないだろうか。1301年(正安3)8月に北条貞時(31歳)が執権を引退し出家するまで、連書は大仏宣時(64歳)であった。そして貞時の出家とほぼ同時に大仏宣時も引退、出家する。天皇家の院政とは異なり、その位を自分の子に伝える為に退位して幼少の子を即位させるというのとは異なる。執権を継いだのは子ではなく義兄弟でも、従兄弟でも、また聟でもある北条師時である。だいたいこのときまだ北条高時は生まれていない。別の幼子は居たようだが。

「早相止連日酒宴、可被催暇景遊事」は貞時の挫折からの自暴自棄だったのではないか。では何に破れたのか。北条氏庶流諸家の長老・大仏宣時は自分の出家の道連れに引退させた。その次ぎの長老、北条政時を誅殺したところまでは良かったが、北条庶流の反発は想像を超え、自分の腹心のひとり、北条宗方を大仏宣時の子・北条宗宣に討たれてしまう。

更なる混乱を避ける為に、全ては既に討たれた北条宗方のせいにして事態の収拾を模索し、京の六波羅、更にそこから西国の御家人に対して、「この事につき、在京人ならびに西国地頭御家人等、参向すべからざるのよし」と釘を刺す。それでも鎌倉には「尚逐日可有合戦之由」と、再び合戦が起こるという風聞が飛び交う緊張した状況が続き、定例の評定は事実上流会となり、京の公家には「関東しづかならず」と書かれる。

その流会した評定から更に翌月の7月22日、「不慮に誅せられ」た連署・北条政時の後任に、北条宗方を討った北条宗宣が就任して、やっと手打ちとなる。しかしそれは北条宗方という片手をもがれた得宗家北条貞時の完全な敗北を意味してはいなかったか。自暴自棄になり「連日酒宴」、評定も寄合もほったらかしで3年後の1308年(徳治3)8月の「平政連諫草」となると見るのもあながち不自然とは言えまい。

となると、細川重男氏の言う、得宗家と北条庶流のそれまでのバランス、得宗専制体制なるものは実は得宗家の完全独裁ではなく、それを取り巻く泰時の代からの北条庶流と、政所、問注所などの実務を担ってきた文筆の家の家格の確立、それによる秩序・バランスにより支えられていたものであり、貞時はそれを強権的に突き崩そうとして敗北したと言えるのではないだろうか。

諸説

黒田俊雄氏は『日本の歴史8 蒙古襲来』 (中央公論社 1965年 p388-389 )で、『保暦間記』に書かれている嘉元の乱のあらすじを紹介して、「しかしこの作戦はまったくまずい・・・・すべて行きづまってくると、権力欲の争いもくだらないやりかたになってくる」と書かれているが、黒田俊雄氏とて霜月騒動や、平禅門の乱の理由で『保暦間記』の説明を是とはしないだろう。なぜここだけ『保暦間記』を信用するのだろうか。おそらくはそれほと大きな転換点とは見なしていないからだろう。

奥富敬之の『鎌倉北条氏の基礎的研究』でも『鎌倉北条氏の興亡』でも真偽のほどは保留しながらも、事件は『保暦間記』に沿って説明している。

もうひとつ、『保暦間記』の記述は安田元久編・『鎌倉将軍執権列伝』(1974年) 五味克夫 「執権北条貞時」 p313 に多分ほぼ全文が出ており、その他の史料でどう書かれているかも紹介されているが、しかし『実躬卿記』は一切出てこない。

『保暦間記』によれれば北条宗方の野心ということになるが、『実躬卿記』に「宗方当時随分有賢之聞」とあるような切れ者の陰謀にしては如何にも間が抜けているし間が開きすぎている。そもそも南北朝時代に書かれた『保暦間記』の信頼性がどれほどのものかは霜月騒動が、平禅門の乱の原因がどう書かれているかを見るだけでも十分に解るだろう。両方とも将軍になろうとしたから滅ぼされたというのである。

何で『実躬卿記』が参照されなかったのかが不思議で調べてみた。すると東京大学史料編纂所編 岩波書店版の『大日本古記録 實躬卿記』全7巻の最新は2006年03月発光の5巻(自嘉元元年至嘉元2年)で、「嘉元の乱」が出てくるのは次ぎの6巻のようである。1巻進むのに4〜5年間隔なので、『大日本古記録 實躬卿記』で「嘉元の乱」を調べることが出来るのはまだ数年先かもしれない。であれば上記のような『保暦間記』とは違う解釈は20世紀の研究書に出てこないのは当然かもしれない。すると細川重男氏は史料編纂所でその作業をやっていたか、見せてもらったか、ということなのだろうか。

2008.3.20〜5.19