寝殿造 6.2.3    近衛家の近衛殿       2016.11.23 

近衛殿  

藤原基実を祖とする近衛家の家名発祥の源となったのが近衛北、室町東の近衛殿である。近衛殿は村上源氏の出である基実の母・忠通夫人(藤原忠隆娘)の屋敷であった。

●近衛殿は仁平元年( 1151)より久寿二年( 1155)まで近衛天皇の里内裏に用いられたことがある。『兵範記』によると、仁平2年4月11日条に、

当時皇居近衛殿、以左伎為陣座、以東対代廊、為殿上、以寝殿一字、南殿清涼殿相兼之

とあり、寝殿と東対代廊、その他、寝殿西北に二棟廊があり、この西二棟廊は西中門廊・西中門につながっていたと考えられる。なお、南面の近衛大路に面して東四足門と西門、北面鷹司には小門がそれぞれ開かれていた。

基実はこの屋敷は臨時に借用する程度であったらしいが、その基実が永万2年( 1166) 7月に24歳の若さで死ぬと、その子近衛基通は祖母のもと、つまりこの近衛殿で成長している。

●『玉葉』嘉応二年(1170)4月23日条の基通元服儀式記事によると、西に中門・中門廊があり、そして寝殿は西に広庇をもった三間四面屋であったらしい。

●既に「関白藤原基通の六条堀河殿」に書いたが、基通は治承3年(1179)11月15日に非参議右中将から内大臣・内覧・関白に任じられた。まだ20歳である。そして同月26日にここ近衛邸から六条堀河邸に移った。それは近衛殿が「家体すこぶる便宜なし」或いは「当時居所寝殿なく、事において便宜なし」と評され、摂政邸としてその体裁ならびに便宜において適当でなかったことによるらしい。

つまり、近衛殿は仁平元年( 1151)、嘉応二年(1170)、治承3年(1179)の三段階で、その建物は段々小さくなり、ついには寝殿の無い寝殿造になってゆく。建物の老朽化ということももちろんあり得るが、その間30年弱なので、川上貢はこう書く。

記録にはみえないが、その間には近衛殿の何らかの被災が考えられる。また保元・平治の両度の戦乱がその間に発生していることからも、これらの兵火による被災があったと推測できよう。(『新訂・日本中世住宅の研究』、p.189)

つまり被災の都度再建されたが、元の状態にまでは再建出来ずに次第に縮小すしていったのではないかと。ここで思い出すのがあの『年中行事絵巻』での下級貴族の屋敷である。『年中行事絵巻』が描かれたのはちょうどその頃だ。摂関家の関白ですらこの状態なら、あの屋敷の主は下級貴族などではなくて公卿だったのかもしれない。

翌々年の養和元年(1181)に基通は五条東洞院殿に移り、基通は摂政に二度なるが、摂政になったあとも、吉書始や春日祭出立などは何れも六条堀川殿や五条東洞院殿で行われており、近衛殿はそうした行事を行う儀礼御所ではなかった。

元暦2年(1185)7月の大地震で五条殿が倒壊して以降は近衛殿が基通の本所御所になり、その晩年にいたるまでこの邸が使用される。この頃の屋敷の状態は判らない。基通は元暦2年(1185)7月時点では摂政であったので、近衛殿はかつての「当時居所寝殿なく、事において便宜なし」な状態はからは改善されたのだろうか。

その後火災に遭い、長らく放置されていた近衛殿の再建は寛喜3年(1213) 正月に着手しているが、この亭は寝殿が無く、替わりが三間四面の卯酉屋であり、中門も無く、廊をともなっただけの規模の小さい、体裁の整わないものであった。

嘉禎3年(1237)の近衛殿

嘉禎3年(1237) 正月14日に家実の子近衛兼経九条道家の娘仁子の婚姻が行なわれ、その新居が近衛殿となった。ただこれはを理解するためには若干若干説明を要する。

擬制婿取婚

これは高群逸枝が『招婿婚の研究』で云う甲型擬制婿取婚(pp.944-948)なのである。この婚儀が決まったとき、近衛殿には家実と兼経の同居していた。そして、決まったあと、父家実は猪熊殿に移る。そして家実が住んだ主屋を新婦の家に引き渡す。新婦がこの屋敷の主屋に入ったあと即座に新婦側、つまり九条家の家司が設えをする。以下の『高嗣記』該当記事は、細々とした点は省くが、実はその室礼を記したものである。そして室礼がすんだ後に新郎がやってきて初夜を迎える。そこまでは『吾妻鏡』風にいうと「密密の義」で、数日後に「事が明らかになった」と婚儀の祝いとなり、そのとき、新郎の父家実は近衛殿を訪れ、新婦側九条家は接待主となり家実に引き出物を渡す。

つまり、実際には近衛家に嫁を迎えたのだが、それまでは身分の低い家の女を嫁に迎えることはあったが、新婦の父九条道家は現摂政、近衛家実は前摂政で、そういう家柄同士の結婚で新郎に屋敷に新婦を迎えるのは「新義」であったため、近衛殿を九条家に譲るという「擬制」によって、旧来の婿取婚との辻褄合わせを行っている。さて、前提知識の説明が済んだところで九条家の家司の記、『高嗣記』の記述を見てゆこう。

『高嗣記』嘉禎3年(1237) 正月14日条に見る寝殿

邸地は南に近衛大路・西に室町小路・北に鷹司小路の三路に面していた。東が烏丸小路に接していたかどうか明らかでない。

西の室町小路に面して南に板棟門、北に土門があったが、婚儀に際して、南の棟門は檎皮葺、北の土門は櫓皮葺唐門に吹き直した。土門とは上土門だろう。北面の鷹司小路にも土門があった。寝殿が存在せず三間四面卯酉屋がその代役を務めていた。それまで中門もなく廊だけだったが中門を加えた。
その他に寝殿の東に六間の子午対屋、同じく北に六間の北対屋、北対屋の東に三間の贄殿が設けられていた。
家実と兼経の同居していたときは三間四面屋に家実、六間東対屋に兼経が分れて居住していたが、新居の鋪設は三間四面屋を新婦仁子の居所にあてた。
母屋の三間の棟中央で南北に二分し、南分三間内東一間が塗寵で、その南、南庇二間を公卿座とした。北分三間は東一間を御帳、、西二ケ間を常御所とした。常御所の北、北庇二ケ間は内公卿座とした。また西庇には出居、東庇南寄に台盤所、東又庇南寄を御湯殿とした。
北対は女房の局にあてられ、六ケ間の各々が上と下に二分され、そして隣室と仕切られた個室を形成していた。

寝殿造・近衛殿

島田武彦「法住寺殿寝殿の北面御所について」(昭和26年11月)で の復原。

建治2年(1276)の『門葉記』指図

ところでこの近衛殿の建治2年の指図が『門葉記』にあるらしい。この図である。

寝殿造・近衛殿

川上貢 旧版 p.124より

これは全く理解に苦しむ。どう苦しむのか図を起こしてみよう。三間四面に東庇付きという点では合っているのだが。

寝殿造・近衛殿

  • まず青い点と赤い点に柱が描かれていない。近衛殿は母屋を二分する棟分戸があって、ほとんど総柱建築と云って良い建物であるはずである。「寝殿が無く、替わりが三間四面の卯酉屋」と云われるほどである。寺院の堂のように高度な技術を駆使した建物ではない。総柱建築と違って柱がない処があるとすれば、中央の列の左から3番目と4番目のはずだ。それならば普通の寝殿だ。欠けている柱は仏事の設えに関係無いので省略したと考えてもよい。青い点で表した柱はそれでも良いだろう。しかし赤で表した柱があったのなら、『門葉記』指図にあるメインの大壇は設置出来ない。ど真ん中に柱がきてしまうからである。おそらく大壇は西から二間目に柱の間に設置されたのだろう。
  • 次ぎに西(左)側の建具である。普通は両脇に妻戸でその間が蔀である。なのにこの指図では南から二間目に妻戸が描かれている。だから寝殿ではなく卯酉屋(東西棟)と云われたのかもしれないが、川上貢も首を傾げて書き間違いかもと云っている。しかしここは本当に妻戸なのだろうか。改めて図を拡大して見ると、蔀の部分は「下之」つまり「これを下げる」イコール「蔀を閉じる」に見え、妻戸と思った箇所は「開之」(これを開く)とも読める(古文書苦行の甲斐があったということか)。通常妻戸のある南庇の西面には南北行に畳みを敷いているので通路には使えず、妻戸を閉じ、南庇(黄色いスペース)の伴僧は簀子から出入りをし、オレンジの壇所の祈祷僧(阿闍梨?)は二間目の蔀を開放した部分を出入り口としていたということかもしれない。絶対に蔀があるはずの南面にその記載が無く、西面だけ一間を覗いて蔀が描かれている理由はそこではないだろうか。
  • そして黄色いスペースの北西の二つの壁である。ここはわざわざ「壁」と書かれている。三間四面の寝殿なら塗籠に相当する位置で、正規寝殿なら母屋の一部。壁があっても不思議ではないが、開くとしたら母屋側にであって、これでは母屋側を閉じて庇側に開放されている。しかしこれは書き間違いとは思いにくい。しかし何でここに壁なんだろう。壁と云われると土壁と思うが、はめ殺しの押障子だろうか。

以上の点から、『門葉記』の仏事指図は絵空事ではもちろんないのだろうが、平面図として見るには正確度はかなり低いという印象をうける。その屋敷に深くは 関わっていない外部の僧だからということと、あとは壇の配置、僧の座る場所が関心の中心であるのかもしれない。いずれにせよ『門葉記』の仏事指図はこれに限らず矛盾する記述も多く、それを補正、あるいは捨象しながら採用出来る情報をさがさなければならない。この指図から読み取るべきことは結局こういうことではないだろうか。

寝殿造・近衛殿

ここからくみ取るべきことは何か。それは寝殿の替わりの卯酉屋、つまり格式ある寝殿とはとても云えない貧乏貴族の(平安時代と比べればだが)寝殿でもハレ(晴)面では蔀と妻戸を使い、ケ(褻)面ではおそらく舞良戸(まいらど)だろう遣戸を使っているということが第一だろう。より正確に言えば、ハレの南面、この屋敷は西礼の家なので、西の礼向きでは妻戸を使うということである。南に蔀の記載は無いが西に蔀を用いている以上、南が蔀でないということはあり得ない。それが謙って「寝殿の替わりの卯酉屋」などとは云わない歴とした寝殿の場合には南と東西両面は蔀と妻戸を使っていることは他の屋敷や、この時代最上級であった院御所の指図により明らかである。他の寝殿でも北面の建具が描かれることは滅多に無いのだが、この指図には北面の妻戸が描かれていることも大事な収穫だろう。

室内の二面の「壁」もほんとうなのだろうが、そこから何が読み取れるのかまでは良く判らない。


近衛殿の配置

近衛殿の配置は、西面南の棟門のつき当りに西中門、北の唐門のつき当りに北対の西妻がそれぞれ面していたと思われ、東六間対屋は三面四面屋、つまり主屋の東に馬道をへだてて位置した。そして北対の東、東対屋の北に贄殿(厨房)があったと思われる。
寝殿に相当する三間四面屋の内部鋪設が、昼御座と常御所、そして出居と台盤所などの対照的分離に、施設全体がハレとケの分化を考慮して配列されている。
近衛兼経は嘉禎3年3月に摂政に任ぜられていて、この邸が摂政亭として取扱われるのだが、祖父基通の例では当時の居所は寝殿がなくて体裁不備の理由で六条邸に移住したことと比較すると、寝殿のない邸でもそのまま居すわらねばならなかったところにこの時代の公卿の無力さがうかがわれると川上貢はコメントする(pp.192-193)。

東西の庇まで南北に仕切られている。中門廊の先に西門があり、その間に随身所や車宿があった。『山槐記』治承2年10月25日条中に随身所と車宿をそれぞれ使用したことが記されている。これも図には書かれていないが存在し、『山槐記』治承2年(1178)11月12日条(皇子御生誕当日)の条中に、東門は普段は使わない小門だと明記している。

九条道家の『玉蘂(ぎよくずい)』嘉禎4年(1238)1月25日条に一条実経の任大将拝賀を兼経が近衛殿でうけるについてこうあり、寝殿の備えをもたない近衛殿での苦慮がみられる。

命云、近衛第無寝殿、然者於東廊設座、可有答拝、簀子可造設階云々

承久の乱後、公家に対する鎌倉幕府の圧迫が強化され、武家にむすびついた一部の公卿(西園寺家に代表される) をのぞいては公家は全般的に斜陽化していて、近衛家の如き名家ですら右のような貧弱な住宅にあまんじなければならなかったことを思うと、藤原定家の住宅にみられるような寝殿と中門廊そして持仏堂・侍屋を具えたものは中流公卿の住宅としては上等の部類に属するのではなかったろうか、と川上貢はコメントする(p.193)。

「寝殿が無い」とは、母屋中央に柱列があり、棟分戸があったことを指すのだろうか。三面四面屋ならそれさえ無ければ小規模ながらも寝殿になる。平清盛の六波羅泉邸も『山槐記』治承2年11月12日条に「分母屋中央立並戸、不以常儀」、つまり常の儀ではない異例の寝殿と言われているが、それでも寝殿 と云われている。しかし鎌倉時代前半になっても、有職故実を重んじる摂関家では寝殿はこうではないという思いがまだ強かったのだろう。しかしそれもこの頃 までで、次項の左大臣鷹司兼忠邸のように鎌倉時代も後半となると、それも「寝殿」と云われるようになる。それを寝殿と云わなければならないほどに、母屋中央に柱列の無い旧来の寝殿が少なくなってきたということか。有職故実を重んじる貴族社会でも、寝殿を使う諸儀式が、建物に合わせた新義に変わり、それが定着もしたのだろう。

『勘仲記』弘安6年(1284)正月7日条にはこうある。近衛殿が臨時に内裏に使われたときである。

七日壬戊 晴陰不定、白馬節会於近衛殿皇后被行之、(中略)
俄為皇居之處、被行節会、棟門竹中門五間寝殿、如此狭小御所為皇居之條、先規稀歟、至六月比可為御所云々、西階構仮階、無軒廊打幄云々

最初は「狭」い「小御所」と読んでしまったが、内裏なら「小」の付かない寝殿を使うだろう。するとこの段階では「棟門竹中門」で「無軒廊」つまり中門廊も無く、しかたが無いので運動会みたいなテントを張ってその代わりにしたと。その5年後にこの近衛殿で任大臣大饗が開かれ、その指図が残るが、えらい違いである。どうしたんだろう。ひょっとして「竹中門」で「無軒廊」とは東側のことだろうか。当時の院御所には両中門が備わっていたらしいので。

正応元年(1288)の近衛殿大饗

鷹司兼忠は正応元年(1288)10月27日に内大臣に任ぜられると、同日に任大臣大饗を近衛殿で開催した。その時の装束や次第が『勘仲記』にある。寝殿自体の間取りはあまり変わらないが、屋敷全体はだいぶ整っている。

大饗座、つまりメイン会場とされたのは寝殿南庇五間と西庇二間で、饗座の背面と側面は例の通り御簾と屏風で間仕切られる。南庇の母屋際に大納言座、中納言座、参議座としたが、参議座だけは対座である。なお指図中で親王座があるが、ここは例に従い畳みが敷かれるだけで、摂関期以来親王は臨席しない。弁・少納言座が西庇に設けられるのも通例である。二棟廊には上官座とあり殿上人だろう。それ以外の諸大夫は中門廊であるのも通例である。寝殿母屋内に三基の浜床が描かれるが、これは女房らの見物席である。

『勘仲記』、弘安11年、正応元年(1288)10月27日条

この指図から平面図を起こすとこうなる。指図は大饗というパーティ会場の舗設図面であって建築図面ではない。従って濃淡がある。ハレ、あるいは礼側はきちんと格が、パーティ会場に関係しない部分は書かれない。グレーは図には柱が書かれていないがあったのではないかと思うスペースである。

寝殿造-近衛殿

寝殿は三間四面で西に弘庇とがあるが柱が書かれていない。最も大きな特徴は寝殿母屋内にまで列柱が立って母屋を南母屋と北母屋とに二分している。このような例は平安時代末の六波羅泉殿もそうだったが、『山槐記』 治承2年11月12日条では、常の儀ではない異例の寝殿と言われている

此御所三間四面也、分母屋中央立並戸、不以常儀、仍随便設座

侍廊は6間だが、西端一間は土間かもしれない。東側は南に廊が突き出し、内側に跳ね上げる蔀と御簾が記されているので二棟廊のような内側吹きさらしではないがこの 東は判らない。南は塀中門とその先は塀で、廊ではない。網代塀(あじろべい)ぐらいか。

庭は東西とも二棟廊や東廊の前に幕が張られ、庭には酒部所のテントが設けられる。中門南廊は料理所となり、そこから西に、侍廊と対峙するように車宿、そし て立明官人座とあるのが随身所だろう。車宿と随身所には南に庇がでている。立明官人とは、大饗が夜に及ぶので、南庭を松明で照らす照明係である。大饗は公卿から弁少納言・外記史・諸大夫ばかりでなく、関係者全員が饗膳をうけるので総人員は大変多く、史生官掌召使饗が66膳、使部饗が99膳、検非違使饗が 10膳、立明官人饗が20膳とあり、合計では200人を超す人数を収容し、膳を出せる大邸宅である。そのような大邸宅であるにも関わらず、透渡廊は既に無くなっている。先に見た関白藤原基通の六条堀河殿でも無かったが、屋敷の格が違う。

下は同じ情報源からの太田静六の復元図である。この復元図では母屋西の弘庇に柱を補っている。確かに弘庇と書いてあるのだから柱もあるはず、と思うのは自然だが、現在ではこの部分は簀子縁を広くしたものと考えられている。他にも何でこう判断したのだろうという処が数点ある。例えば二棟廊に南階を付けたことである。指図の細かい記述の中にもそんなことは書いていない。


小寝殿 

川上貢は近衛殿西小寝殿の初見は『勘仲記』弘安5年(1283)正月12日条に「室町西北門小御所」とあることと云うが、『勘仲記』に弘安5年正月12日条は無い。弘安6年(1284)正月12日条の誤植だろう。以下が弘安6年(1284)正月12日条である。

上皇(亀山)今夕遷幸万里小路殿〔割書略〕、其儀右小弁為方奉行、室町西北門小御所為出御所。
・・・・、主上(密密叡覧、鷹司面小御所為其所、殿下令候給。

正月30日条には

今日被行尊勝陀羅尼供養、仍着束帯参殿下、予所奉行也、職事宗雄申沙汰之、道場以東小御所三ヶ間為其所如例、公卿座円座簀子敷之、白所々御経到来、運置台盤上、刻限緇素参集、内々先申事由、可始之由有仰、予告公卿、次経南庭参東御所

『勘仲記』に弘安9年(1284)12月17日条以降翌年4月までの出産記事に「西面小寝殿」「東小寝殿」「東面小御所御車寄妻戸」「小御所」が出てくる。

  • 弘安9年(1284)12月17日条。 
    着束帯姿、近衛殿、女房吉事御着帯事奉行・・・、主人〔冠直衣〕、女房渡御西面小寝殿、以予被問可被出御帯吉方於陰陽師〔権天文博士有弘朝臣〕、庚方之由申之、即其由申入、少時自西面妻戸〔当吉方〕被出御帯・・・
  • 弘安10年(1285)3月25日条。 
    近衛殿女房御産御調度御覧、予不参、伝聞、於東小寝殿南面御覧、
  • 同3月30日条。 
    次参内大臣殿、御産御祈千度御御祓於東小御所南面被行之
  • 同4月7日条。
    酉刻御産平安若君御誕生、・・・東面小御所御車寄妻戸内岡屋法印御房御坐、
  • 同4月1日条。
    参近衛殿、今日若君御湯始也、職事成朝一向奉行也、雑具前右馬助行泰調進、寛元行経調進例也、以小御所南面為其所、刻限雑具渡進

まず小寝殿と小御所は同じものを指しているとみて良いだろう。先の弘安5年(1283)の記事に「室町西北門小御所」と「東小御所」が出てきたがここでも「西面小寝殿」と「東面小寝殿」がでてくる。


川上貢はこう書く。

西小御所の平面や大きさについては明らかにし難く、西面に妻戸があり、南面して格子の間が三間以上存在したことを知るにすぎない。・・・・先の指図にみるように、寝殿東方に直接して塀が設けられていたところから、東西行がわずか一町の邸地では寝殿が邸地中心より東に偏していたようで、東小御所を設ける余地があったかどうカ疑問に思える。(p.200)

先の指図というのがどれを指しているのか判らないが、『勘仲記』、弘安11年、正応元年(1288)10月27日条にある平面図の範囲なら、柱間寸法を標準の一丈とすれば、南に大きな池でも掘らない限り、方一町の南西1/4にほぼ収まってしまう。「寝殿が邸地中心より東に偏していた」と考えた理由が分からない。むしろ西に寄っている。

寝殿造-近衛殿

例えば西園寺家の今出川殿は南殿の他に北殿があったが、東向御堂さえなければ北殿が西北殿と東北殿の二つになっても、方一町の敷地に収まるだろう。川上貢は更にこう続ける。

嘉禎度においては女房局としての北対や贄殿が存在しており、同時に弘安年間においても女房や仕女の局と雑舎そして炊事・調理のための厨所・釜殿は当然存在していたろう。これらの施設はおよそ寝殿北方に存在するのが通例だカら、西小御所と同種の施設(東小御所)を更にこれに加えることは敷地の関係から考えると少し無理であろう。東小御所が御産御所に使用されていることを思うと、それは女性の住居として日常使用されていた施設であるいは女房局の屋を指すのではなかろうか。(p.200)

女房(いわゆる女官)の住まいである北対や雑舎 が一般に北にあることはその通りだが、それを想定しても北にはまだ十分に余裕がある。更に川上貢はこの論考の「結論」においてこう書く。

近衛殿の弘安年間の規模には小御所または小寝殿と呼ばれる屋が東西に設けられていたが、これは北対であったようで、夫人の居所に用いられているところから寝殿の本御所に対し、その副次的な意味で小御所または小寝殿と敬称したものらしい。なお、三殿を通じて常御所は寝殿内の北面に設けられたょうである。(p.534)

「あるいは女房局の屋を指すのではなかろうか」から更に勧めて「これは北対であったようで」と断定しているが、承服しかねる。「かも」と「だ」ではだいぶ違う。「だ」と言い切る根拠を川上貢は何も示していない。そもそも「北対」とはどういうイメージなのだろう。『家屋雑考』に描かれた寝殿と同じ大きさの屋、紫宸殿の後ろの仁寿殿も北対だが、この時代に「北対」と云えば梁行二間の長屋だろう。「小御所」は小さくとも家政機構もどきを備えた、中門廊も備えて、場合によっては専用の門まで持つ一角を指すことが多いだろう。そして先の敷地の図のようにそれを儲けるスペースは方一町の中に確保出来る。『家屋雑考』に描かれたような池が無ければの話だが、近衛殿にそんな規模の池があったという記録は無い。

どうも川上貢は太田静六とは反対に小さく小さく見積もろうという傾向があるように思えてしまう。もちろん私は大きく大きくイメージしているつもりは無いが。

もちろん鳥羽殿やこの当時の院御所をり数段格下の屋敷であるので、小御所、小寝殿と云っても、三間三面ぐらいの小さなもの、通常の寝殿の常御所である北庇梁行二間に南庇の梁行一間を付けた程度のものかもしれないが、先に示した弘安10年(1285)4月7日条のように東面小御所には「御車寄妻戸」、つまり小さくとも中門廊が付いている。若干の廊(台盤所)や贄殿のような雑舎を伴っても、北の東西に二つの小寝殿(小御所)があっても敷地的には収まると思うがどうだろう。

またこの屋敷の小寝殿とも小御所とも云われる一角は門が別になっているらしく、『勘仲記』弘安11年・正応元年(1288)10月27日条にこうある。

内大臣殿還御近衛殿、(中略)、入御室町面唐門、於小寝殿西庇、被申御慶於大殿御方、申次左衛門権佐経親朝臣、次於同所被申前関白殿御方、右兵衛佐惟輔勤申次、少時尊者権大納言〔公守卿〕以下列立中門外・・・

内大臣殿は鷹司兼忠。大殿御方とは鷹司兼平である。簡単に言えば兼忠が内裏で内大臣ねの辞令交付を受けて、任大臣大饗の会場に借り受けた近衛殿に戻ってきて、まず父親の大殿御方に報告する場面である。「前関白殿御方」は鷹司基忠か。先に平安時代の独立した小寝殿、角殿、小御所を見てきたが、そのようなもののように見える。

鎌倉時代の傾向・棟別戸

寝殿の並戸は一条室町殿、今出川殿、この近衛殿と、鎌倉時代における寝殿内部の一つの傾向ととらえることができる。並戸・棟別戸以北の空間は寝所(帳、ただしこの時代なら障子帳か)と、常御所の両者から構成されていたと見倣される。今出川殿では御産所だが。

したがって、並戸・棟別戸によって南北に寝殿内を二分されて形成される南北両空間は、北の私的空間と南面の公式儀場空間に大別することができ、並戸・棟別戸は両者の交流通路にあてられるが、各空間の機能を乱さないための障壁であった。つまり、常御所が臨時に仮設的鋪設によって形成された段階より固定された室として常設される段階に発展したところに並戸や棟別戸の存在理由が考えられるとする。

今出川殿寝殿は五間に二間の母屋を中核として四面に庇のついたもので、加えて『勘仲記』に、寝殿東弘庇に勅使座を設けたことあることから、更に東弘庇を附加したものを以て寝殿のすべてと考える。実際に『公衝公記』の今出川殿寝殿図が出てきた。
な お、建具は外廻りでは南正面・東西両側面(但し両側とも南端の間は妻戸) に格子をたてるのをこの時代でも変わらない。北面は不明である。遣戸かもしれない。室内では間仕切の引違建具の使用が多くみられ、とくに母屋と庇の境より内側に入って、母屋内を小間に分化する傾向が増加しているというのが、川上貢の見解である。もちろん私も異存は無い。

初稿 2016.10.04