武士の発生と成立 兵(つわもの)の家−摂関時代

平将門以前の京の貴族には「武」を得意として、群盗蜂起の時代に東国に下って、その討伐や沈静化を図った貴族はは居たようですが、しかしそれは「家柄」として社会的に認知されていたとまでは言えないようです。

それが平将門の乱(天慶の乱)以降変わっていったことは既に「下向井龍彦氏の「兵(つわもの)=武士」」で見てきた通りです。承平・天慶の乱は、ただの地方の暴動ではなく、将門が「新皇」を名乗ったことで、朝廷・公家社会を根底からひっくり返されるかもしれない脅威と恐怖を京にもたらし、それが故に朝廷をあげての鎮圧の祈祷まで行われた「空前の反乱」でした。その驚愕と恐怖が平安時代はおろか中世(鎌倉時代)に降っても「都の貴族たちの記憶に再生産し続けられた大事件」(川尻秋生氏の「武門の成立」)であったようです。

それが故にその承平・天慶の乱の勲功者と、それを今に体現するその子孫は、単なる武力の担い手であるだけではなく、「大魔王降臨」を防ぐ「護符」、と言ったら言い過ぎでしょうか。しかし「『大魔王降臨』にも等しいあの将門から朝家(ちょうけ:朝廷)を守った」「兵」(つわもの)として藤原秀郷平貞盛源経基の名が代々記憶に刻まれたことは確かでしょう。「兵の家」とは、第一に将門と戦った家なのではないかと。

そうして生まれた「兵の家」が、そのまま順調に武士の成長につながっていったのかというと、まだまだいくつもの段階が必要だったようです。

大索−「武勇に堪えたる五位巳下」の動員

その後の摂関時代に彼ら藤原秀郷平貞盛源経基の子や孫達が、実際にどのような存在であったのかをここで見ていきたいと思います。

『扶桑略記』960年(天徳4)10月2日条に、平将門の子が入京したとの噂に対して次ぎのような措置が取られました。

右衛門督朝忠朝臣に勅して、検非違使に仰せて捜し求めしむ。また延光をして満仲・義忠・春実等に対仰せしめて同じく伺い求むべし。

右衛門督朝忠から検非違使への指揮系統は正規の軍事・警察機構です。しかし問題はもう一方です。義忠は誰だか判りませんが、源満仲は源経基の子、大蔵春実は純友の乱で最も活躍した追捕使(ついぶし)の主典(さかん)です。延光とあるのは醍醐源氏の源延光です。村上天皇の甥で、蔵人頭(くろうどのとう:秘書室長のようなもの)兼右兵衛督でした。右兵衛督は確かに武官の一方の長官ですが、源満仲『扶桑略記』応和元年、つまりこの翌年の5月10日条に武蔵権守とあるのでこの時点で右兵衛府の官人であったとは思えず、源延光が蔵人頭として源満仲らを招集したと考えられます。つまり、本来その任にあたる検非違使とは別に、天皇から官職によらず招集を受け、動員されたこということに。

おそらくそうであろうと思われる理由のひとつは、その事件の翌月、『西宮記』960年(天徳4)11月14日条に、京での盗賊蜂起に対して「諸衛(と)武に堪えたる官人」検非違使にとともに「夜巡」(夜間の市中警護)をさせることとし、その際に左右馬寮から騎乗する馬を支給したとあります。
それ以降もそうしたことが度々行われ、『日本記略』976年(貞元1)3月28日条の大索では「諸衛佐以下舎人以上」に加え「武勇に堪えたる五位巳下(いげ:以下の意)」「弓箭を随身して」集合せよと命じています。大索・索盗と言います。(橋昌明「武士の成立・武士像の創出」p93)

平将門の天慶の乱の少し後、10世紀後半当時の京都の人口がどれぐらいであったのかは解りませんが、軍事力とも言えない警察力はどうも微々たるものであったようです。左右の近衛など六衛府(近衛、兵衛、衛門)が本来の軍事警察力であったはずですが、近衛府の中将、大将は公卿(三位以上)の家柄の青年部みたいなもので職業軍人とは言えず名誉職になっていたようですし。市街の警護は左右の衛門府から選ばれた検非違使が担当しますが、大した数ではなかったようです。

「武勇に堪えたる五位巳下」として天慶勲功者の子孫を官職にかかわらず動員したことは、朝廷が彼らを「朝家の爪牙」としていることをアピールして庶民を安堵させ、強盗を威嚇し、治安の沈静化を図ろうという意図があったと思います。

また、馬寮より馬を支給して捜査に当たらせたというのは、臨時ではあれ、そのときだけは「公務」であることを強調したのであり、また「弓箭を随身して」と強調したのは、当時最も恐ろしい兵器は弓矢で、ちょうど今の銃砲、いやそれ以上は無いからマシンガンぐらいに相当し、故に京では携帯を禁止されていたということがあります。宮中警護を職務とする滝口ですら弓箭の携帯が許されたのは977年です(『日本記略』貞元元年2月10日条)。弓箭の携帯が許可されるのは天皇直々に命令を下したときだけ。大索はそれに当たります。

それに召集されることが「兵の家」のお墨付きのひとつになったのでしょう。こうして衛府の官人以外の「兵の家」が社会的に認知されていきます。

長徳の変での「兵の家」動員

そうした官職にかかわらない「武勇に堪えたる者」の動員は政変といった緊張した場面でも行われました。「栄花物語」(巻五・浦々の別)には、藤原伊周・隆家が失脚した長徳の変(996)の時に召集され内裏を警護したのが

陸奥国前守(平貞盛の子)維叙、左衛門尉維時(平直方父)備前前司頼光、周防前司頼親(大和源氏:頼光弟)など云う人々、皆これ(源)満仲、(平)貞盛子孫也。おのおの兵士ども、数しらず多くさぶらう。

とあります。この内現役の武官は左衛門尉平維時平直方父)だけです。
にもかかわらず「皆これ満仲、貞盛子孫也」、つまり天慶の勲功者の家が「兵の家」として高い評価を得て、それぞれが郎党を引き連れて内裏の警護に動員されていたことを示しています。

しかし、逆に言えば、官職や、勅による動員によって初めて「武」が認証されたのであって、武芸に長けている、武装している、武装した家人を抱えている、などによって「武士」と認められたのではないということでもあります。更に言えば、彼らの家系が後の「武士」となったとしても、この段階では貴族・官人の中の「武勇に堪えたる者」であって、彼らは四位五位の一般の中下級貴族か、あるいは六位の侍品(貴族に仕える層)から分離はしていなかった、原則としては「武」の官職が優先されていたと言えます。

どこに書いてあったか忘れたのですが、あっ見つけました「武士の成立・武士像の創出」p100ですね。源満仲が982(天元5)に常陸介になった年の3月に、左馬権頭の兼任を願い出て許されています。これは衛府同様馬寮も武官の一翼であり、名目だけとはいえそれを兼任していることで公の武官(武者)としての地位を保持し公式に弓箭を携帯出来たということでしょう。

 

兵の家からも文官のエリートコースへ

この時期、「兵の家」とよばれるようになる天慶勲功者の子孫達は主に左右衛門少尉から検非違使、そして受領へというのが大方のコースとなり、中下級貴族か、あるいは六位の侍品の中では武官系の官職につこうとしますが、しかしそれらのポストはそれほど多くはありません。

また「兵の家」から五位以上の貴族になった者の子弟がかならずしも武官のポストを狙ったかというとそうでもなくて、藤原秀郷の流れの鎮守府将軍藤原頼行の子藤原行善のように文書生(もんじょうしょう)を採用する式部省の試験を受けるもの(『春記』1041年(長久2)3月13日条)、蔵人(くろうど)として一般官人の道を歩むものなど様々です。

文書生(もんじょうしょう)はT種国家公務員試験を受かったあとに国費で大学院の研究生になっているような、今で言えばキャリア組みたいなものです。このコースで上まで登りつめたのが菅原道真です。

藤原行善が文書生試験に受かったのかどうかは知りませんが、実際に文書生となった者も。997年(長徳3)に太宰府は異国来襲に備えるために対馬国太宰大監平中方を差し遣すことを中央に申請していますが、その解文に「中方、身は文章生為り、また弓馬を習うと云々」とあるそうです。(『小右記』6月13日条:野口実「伝説の将軍・藤原秀郷」p83-84より)
この平中方は系図だと何処かと思ったんですが、平維時の子、平直方の兄弟のようですね。年代的には微妙ですが、まあありえなくも無いかと。

貴族・源頼光

代表的なのは源満仲の嫡男、源頼光ですが、彼は確かに986年の花山天皇出家事件では天皇の山科行き警護(実際には護送?)や、996年の藤原伊周・隆家の左遷(長徳の変)時に内裏を警護したりもし、後の世では伝承の世界では四天王を引きつれ数々の鬼退治伝説で知られ、「朝家の守護」「朝家の爪牙」として語られます。

しかし実際の人生は備前、美濃、但馬、伊予などの大国の守となってもほとんどは任国には行かず、春宮(権)大進、東宮権亮、内蔵頭として三条天皇の皇太子時代から側近くに仕えています。特筆すべきは源頼光が迎えた婿の一人には藤原道長の兄、右大将・大納言藤原道綱がいることです。藤原道綱は藤原兼家『蜻蛉日記』の著者(藤原倫寧(ともやす)の娘)の間に生まれています。当時は婿は妻の家に住んだので藤原道長の兄・右大将藤原道綱は頼光の家に住んでいました。その一条西洞院の邸宅は藤原道綱の母方の祖父藤原倫寧の家だったものを頼光が購入したものらしいですが。(『源満仲・頼光』元木泰雄著 p120)

貴族の武

頼光は中級とはいえ貴族の世界での実務官僚としてそれなりに陽のあたる道を歩みましたが、その同じ時代、道長の家司に藤原保昌がいました。『尊卑分脈』(第3冊7/58)にも「勇士武略之長名人也」と書かれるぐらいの有名人ですが、藤原秀郷流や藤原利仁流のような藤原庶流の「兵(つわもの)の家」ではなく彼は藤原南家の出で、あの有名な大納言藤原元方の孫。正真正銘の貴族です。「兵の家」ではありません。そしてその弟が「強盗張本本朝第一武略■追討宣旨十五度禁獄自害」と書かれる正五位下右兵衛尉藤原保輔です。「今昔物語」のレギュラーメンバー盗賊袴垂は彼のことではないかと言う噂も。

その藤原保昌は『今昔物語集』にも何話か載っており、その巻第一九第七話に「丹後守保昌朝臣の郎党、母の鹿となりたるを射て出家せる話」と言うのがあります。その冒頭にはこうです。

今昔、藤原の保昌と云う人有りけり、兵(つわもの)の家にて非ずと云えども、心た猛くして弓箭(きゅうせん:武芸)の道に達れり。この人の丹後守として有りける間、其の国にて朝暮に郎党・眷属と共に鹿を狩る(一種の軍事訓練)ことを以て役とす(仕事のようにしていた)。

「兵の家にて非ずと云えども」というのは『今昔物語集』が12世紀初頭に書かれたからで、彼が生きていた時代にはまだそれほど「兵の家」は確立されたものではなかったとも言えます。

傭兵

その『今昔物語集』巻19第4話には「摂津守満仲出家せる語」もありますが、その出だしは次のようなものです。

今昔、円融院の御代に、左の馬の頭(かみ)源の満仲よいふ人有けり、筑前守経基と云いける人の子也。世に並び無き兵(つわもの)にてありければ、公(おおやけ:ここでは天皇)も此を止ん事無き者になむ思しめしける。亦、大臣、公卿より始めて、世の人皆此を用いてぞ有りける。

満仲は安和の変などの印象から、藤原氏本流に臣従していたイメージが強いのですが、天皇を始めとして臣、公卿などに必要に応じて起用されていたと。つまり支配階級全体に奉仕する傭兵部隊としての色彩が感じられます。

傭兵部隊として登場した代表的なものは花山天皇出家事件でしょう。鴨川の堤にさしかかったあたりから山科の元慶寺まで邪魔が入らないように郎党を従えて警護したと『大鏡』にあります。満仲の出家はその花山天皇出家事件の年、986年です。誰もそんなことは言っていませんが、自分も手を貸した陰謀の犠牲者花山天皇の出家に殉じたのかもしれません。

ボディガード

花山天皇出家事件での源氏の武者はどちらかというと護送ですが、ボディガードとして『今昔物語集』に出てくる話しが巻22の14話の平致経です。

明尊僧正が宇治殿藤原頼通(道長の嫡子で関白:宇治は平等院のこと)に三井寺に使いして夜の内に戻るべしと命ぜられ、その護衛に平致経がついたと。平致経は徒(かち)でついてきたので明尊僧正はとても心細く思ったが、そのうち辻辻で騎馬武者が合流し、最後には30人以上になったと。「兵」(つわもの)とはこういうものかとびっくりし、感心もした明尊僧正が藤原頼通にその話しをしたら、頼通は別に驚いた様子もなかったと。

ボディガードとして『今昔物語集』に出てくるもうひとつの話しは摂関時代ではなく、白河法皇の院政時代ですがこういう話しがあります。

後三年の役のあと源義光は東国の荘をめぐって院近臣の藤原顕季(あきすえ:美福門院の祖父)と争ったが、藤原顕季に理があったらしい。しかし白河法皇はなかなな裁定をくださない。ある夜、白河法皇は顕季に「なんじはあの荘一カ所が無くなってもまったく困ることはなかろう。だが義光はあの一カ所に命を懸けているのだそうだ。もし道理のままに裁定したら、無鉄砲者の武士がなにをしでかすかもしれぬとためらっているのだ。いっそ譲ってやってはどうか。」と言う。顕季はそれに従い、源義光を呼んで譲り状を書いて与えた。源義光はおおいに喜び、座をたって顕季の宅の侍所に座を移し、即座に「名簿(みょうぶ)」を書いて藤原顕季に差し出した。侍所に座を移すことも「名簿(みょうぶ)」を差し出すことも、これは顕季に臣従する、家来になると言う意味である。しかしそれから1年、源義光はいっこうに藤原顕季のもとに顔を出さない。

そんなある日、藤原顕季は夜になって2〜3人の雑色(召使い)だけを連れて伏見の鳥羽殿から京に退出したところ、しばらくすると甲冑をおびた騎馬武者5〜6騎が前後についた。藤原顕季は恐ろしくなって雑色に尋ねさせたところ、騎馬武者の言うには「夜になって御供人もなく御退出になるので、刑部丞殿(源義光)がお送りするようにわれわれを差し向けたのです。」と答えたと。

平氏の暗闘

藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月条には平貞盛の子下野守平維衡(これひら)と散位平致頼平良兼の孫)が伊勢国の神郡(伊勢神宮領)で私合戦をしたことが載っています。鎌倉中期、1252年(建長4)成立の説話集『十訓抄』には優れた武士として、源頼信藤原保昌平致頼平維衡が並んで挙げられ、この四人がもし、互いに相争うのならば必ず命を失うはずと書かれていますが、その内の2人が争った訳です。

これについては橋昌明氏の『伊勢平氏の興隆−清盛以前』の1〜2章に詳しく紹介されていますが、それをベースに元木泰雄氏はその著書『武士の成立』p64で、この時期に特徴的な点を3点にまとめています。

  1. 平維衡が道長・実資ら各有力者に伺候したように、複数の主人に仕えていたこと
  2. 京に拠点を持つとともに、伊勢平氏における伊勢のように、地方にも所領などの根拠地を有していたこと
  3. 京の内外に複雑な人脈を有し、暗殺・傷害の常習者であったこと

などです。武士が治安維持の担い手どころか、逆に治安を悪化させていた側面も。

所領

その「所領」については、源満仲も摂津国多田荘を持ち、そこで鷹を飼い、狩りをし、郎党を住まわせ、その生活基盤としていました。その多田荘は嫡男源頼光から摂津源氏・多田源氏へと引き継がれていきます。またその弟・源頼親は大和国に、源頼信は晩年河内国の壺井に本拠を構えますが、しかしその所領はその後の感覚からすれば狭小な領地であり、石高で言えば千石とかそんなもんじゃないでしょうか。尚江戸時代の大名は1万石以上、それ以下は旗本です。

暗殺者

1017年3月11日、即位したばかりの後一条天皇の行幸で賑わう京で、検非違使の警護がそちらに集中した隙を狙ったのか、7〜8騎の騎馬武者と10人あまりの歩兵が六角・富小路の清原致信の館を襲撃しました。清原致信は『枕草子』で有名な清少納言の兄です。

その実行犯の一人は秦元氏の子で、秦元氏は源頼光の弟、大和源氏の源頼親の従者です。事の起こりは、清少納言の兄清原致信が先の藤原保昌の手先として、大和国で源頼親をバックに威を誇った当麻為頼を暗殺したからで、清原致信を襲撃し殺したのはその報復です。

この事件を聞いた藤原道長は「件の頼親、殺人の上手也。度々この事あり」と日記に書いています。(『御堂関白記』1017年3月11日条)

藤原保昌も源頼光の弟源頼親も、そして清少納言の兄清原致信も、更に清少納言の最初の夫橘則光もその実体はあまり変わらない、つまり貴族と武士とは垣根が出来つつあってもまだそれほどはっきりしたものでは無かった、未分化であったとも言えるでしょう。

もうひとつ『左経記』1021年(治安1)によると、先の伊勢国で平維衡(これひら)と争った平致頼の息子、左衛門尉平致経と弟内匠允(ないしょう・じょう)公親が前年東宮史生(ししょう)安行を殺害していたことが明らかになりました。捜査に当たった検非違使は伊勢において致経の郎党を逮捕。その郎党の自白により、彼らは東宮史生安行だけではなく、以前に滝口信濃介を一条堀川の橋の上にて殺害、更に東宮亮(すけ:次官)藤原惟憲を殺害しようと3日間狙っていたと。
東宮亮藤原惟憲は道長の家司でもあり、どん欲な受領としても有名で、最後は三位にまで登ったれっきとした貴族。その殺害の動機は東宮坊の下級官吏街に家を借りていた平致経が、東宮坊の官吏街に住む者としての役目を果たさなかったので家を壊されたその私怨とか。まるでヤクザの逆恨みみたいなものです。(橋昌明『伊勢平氏の興隆−清盛以前』p20-24)

平忠常の乱の追討使

平忠常の乱については別にまとめていますので詳細はそちらをご覧頂くとして、ここでは摂関時代の特徴の面からだけ見ていきます。追討使任命の経緯は以下の通りです。

  • 1028年2月21日、検非違使右衛門少尉平直方を「前上総介忠常」の追討使に任命。
  • 1030年3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で平致経と抗争により任国へは向かえず。
  • 1030年9月、朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。

ここで注目されるのは、確かに大索や長徳の変(996)では官職に関係なく「兵の家」の者が動員されましたが、しかしその回数は少なく、むしろまれであり、最初から源頼信も追討使の候補としてあがっていながら、検非違使である平直方が任命されます。それがうまくいかず、最終的には源頼信の代打となりますが、それに先立ち、源頼信は甲斐守に任じられ、それによって反乱の鎮圧は近隣の国守が行うという慣例に沿った形が整えられます。

この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となったと一般には言われますが、確かに源頼信の関東での名声は高まり、源頼信に名簿を提出して臣従したものは多かったでしょうが、しかし一般に思われるほどのものではなかった、過大評価すべきでは無いと言うのが最近では定説となっています。

 

京の平安

平安と言えるほどでも無いとは思いますが、しかし安和の変、長徳の変以降、京には大きな政変、軍事的緊張も無く、天皇も藤原摂関家も長徳の変以降は完全にミウチであり、強盗やら追い剥ぎやら、藤原保昌の弟で「強盗張本本朝第一武略■追討宣旨十五度禁獄自害」と書かれる正五位下右兵衛尉藤原保輔だの、先に見た平致頼みたいな暴力団に対する日常的なボディガード以上には武力の積極的囲い込みをはかる必要も無かったと言うのが当時の状況です。

全国的にも源頼信の子と孫が、前九年の役、後三年の役を引き起こしたといっても、それははるか遠方の奥州での出来事であり、朝廷が積極的に「兵の家」の武力を活用しなければならないような事態はほとんど無かったと言えます。

そのため在京の軍事貴族は軍事貴族として突出する場は無く、東国においては留住から土着化していき、また京では一部を除いて一般下級官僚や摂関家の家政機構に吸収されていきます。

父系の確立と家業の固定化

「兵(つわもの)の家」がこの時代どの程度確固たるものであったのかと言うと、必ずしも絶対条件と言う訳ではありません。しかしその一方で父系の確立と家業の固定化という社会意識の変化も現れはじめます。

この時期は京の貴族社会では「ハレ」と「ケガレ」の意識が段々と強くなっていった時期でもあるのではないでしょうか。俗っぽく言えば内裏を中心とした京市内は「ハレ=聖域」、弓矢の携帯禁止のように「武=殺生=ケガレ」を出来ることなら遠ざけようとした。必要悪として認めてはいてもなるべく一部の「イエ」に封じ込めようとしたと言う側面もあるような気がします。そしてそれは高橋昌明氏が言うように貴族が軟弱であった為ではなく、貴族にもその側面があるので放っておけば暴力=武力が横行してしまう側面もあったでしょう。

もうひとつ、『今昔物語集』に「兵」「兵の家」「兵の家にあらずども」と出てくるのは、ちょうどその頃始まった半母系の崩壊?、父系の「家」、「家業」の固定化の始まりのなかに「兵の家」も「家業」として他と同時に認識されていった側面もあるのではないかと思います。それが現れ始めるのは時期としては院政の始まる頃、ちょうど源義家の頃です。

2007.10.28
更新 2007.11.01