2012.9.29 11.3    我が家の場所は  

我が家の場所

ところで昔の我が家の場所ですが。最初はもう少し先と推理したのですが、その後何十メートルか西に移りました。ワコール八幡山の北側、首都高高井戸インターから降りて、下の道に合流する、ちょうどあの柱のあたりのようです。

高井戸玉川上水の家_06.jpg

推定地が変更されたのは11月4日に妹と自転車で調査に行った結果です。 妹が井上さんの家を見つけました。井上家には私の同級生は居なかったので全く忘れていましたが、言われたら段々思い出してきた。あとは私が遊んでいた送電線の鉄塔の位置です。(詳細は次ページで)


ただの細い農道が道になっている。それに騙されたんですね。


最初に手がかりにしていた宮田君の家への小径が無くなってる。するとこれが宮田君の家への小径? 


オレンジ色の建売り1、2は最初の頃は畑だったのですが、高校の頃だったか、順番に建売りが建っていきました。建売りだったのか、分譲だったのかは判りませんが。それと同時にザリガニ池が無くなったのかな?

ザリガニ池と言うのは今付けた名前なんですが、細い運河みたいな池があって木の橋がかかっていました。でも大雨が降るとその橋が筏のように水に浮くんです。ということは地面より低い橋だったんでしょうね。二番目の妹も覚えていたので雨の後に一緒にその筏で遊んだのでしょう。

で、その橋の上からスルメを糸に結んで垂らしているとおっきなザリガニが釣れたんです。茹でて食べたこともありました。まだ赤くならないザリガニの子供は隣の祖父の家の鶏が争うようにして食べるので面白がってやっていたら、クラスメイトの渡辺君に、岩田が引っ越してきたんでザリガニが絶滅したと言われてしまいました。絶滅なんて大げさだよねぇ。確かに少なくなったなぁとは思ったけど。(。_・☆\ ベキバキ

ちなみに渡辺君というのは、高井戸に越したあとに始めて出来た友達です。というか、彼が「あっちに居るから遊びに来いよ」と声を掛けてくれたのでその近所の子供達、宮田君なんかと友達になれたような。渡辺君は今で言うとイケメンで(私と同じぐらい? 。_・☆\ バキ)、スポーツマンで、勉強も出来て、家のリビングルームには当時最先端のステレオがあって、ソファーもあって、洋酒が置いてあったかどうかは忘れたけど、芝生の庭も広くて我が家とは大違い。その割には嫌みのないやつで。明大を主席で卒業して大手に就職したとか後に母が聞いたそうです。

でも一度だけ勝ったことがあります。中学のときにもう一人のスポーツマン吉田くんと三人で、夜中にキャラバンシューズを履いて山登りスタイルで荻窪駅から埼玉県の飯能まで30kmか40kmを歩いたことがあるんです。何でそういう話になったのかは忘れたけど、その三人組で良く奥多摩の山とか行ってました。
あの頃は深夜は本当に真っ暗で、ときたま街灯があるぐらい。朝方飯能に着いて、河原で缶入り固形燃料でカレーライスを作ったときには、他の二人はバテすぎて食べる気力もなく、私だけぱくぱくと食べていたことが。
そのあと母は渡辺君のお母さんに「岩田君て疲れしらずで凄いんですってねぇ」と言われたとか。
いつも怒られるばっかりだった母がそのときだけは「あの渡辺君に勝った♪」と得意満面でした。でも渡辺君のお母さんは意外そうな顔で言っていたそうですけどね。(笑)

ところでその渡辺君のお父さんというのが隣に住んでいた母方の祖父の教え子だったんです。
そのお父さんに祖父のことを聞いたら「山形先生はハイカラな先生で、外人の男女がキスしてる写真を見せて、これについての感想をレポートにせよ!なんて講義でビックリした」と。
それを聞いて「どひゃー!」で御座いましたわ。私の知っている祖父は、戦後の、年老いて、いつもにこやかだけど腰の低い、美術学校の用務員をしている姿だったので。

祖父に聞いていたのは苦学生でパンに醤油を薄く引いて食べていた、なんて話ぐらい。あとは助教授ぐらいの頃に官費でヨーロッパへ留学して、本国から学長だか校長だかが替わったから帰ってこいと電報が来たけど無視して帰らなかったとか、そのときヨーロッパに船で行くと高いので、シベリア鉄道で行たらひとつの車両に乗客は祖父一人だったとか、運動不足にならないように駅につくたびにホームを走っていたら、車掌に「汝は何をしておるのか」と聞かれたとか、って話しか聞いてませんでしたので。でも当時のシベリア鉄道の車掌が日本語や英語を話すとは思えないし、祖父がロシア語を話せたとも思えないので本当に話が通じていたのかは不明です。

ちなみに家の前の「植木」と書いてあるところ(現在のワコール八幡山)は、「植木畑」で、シュロ(棕櫚)とかが植わっていました。そのシュロの枯れ葉で隠れ家を作ったり、雀を捕ろうと煉瓦を組み立てて罠を作ったり、炭を粉にして硫黄と硝石を目分量で調合して黒色火薬を作って、恐る恐る火を着けたらブスブスと燃えるだけでガッカリしたりとか、まあ色々と思い出があります。ちなみに「シュロの枯れ葉で隠れ家」は上の妹も覚えていました。そういえば夕方にコウモリが飛んでましたね。

左側の「瓢箪」というのは、このあたりに瓢箪が生っている家があったんです。
「あれが枯れたら瓢箪になるのか、種はどうやって出すんだろう?」と眺めていた記憶が。

銭湯の位置は、国土地理院の1956年3月10日の航空写真では、該当しそうな大きな建物がここなんです。上水沿いの道から北に原っぱの先にあった記憶があるのでその斜め左下ではないと。1956年には母方の祖父母の家で、私たちはまだ荻窪に居ましたが、銭湯はもう建っていたはず。


しかしこの写真から半世紀後のgoogle航空写真のなんと高性能なことか。
もっと低空で撮してくれたら良かったのにねぇ。 

荻窪図書館で昭和33年つまり1958年の1/10000図を見つけました。我が家はまだ荻窪に居ましたが、母方の祖父母はもう高井戸に家を持っていたはず。でもその家が書いてありません。国土地理院の地図って、大きな変化は反映するけど、小さな家が一軒建った程度は反映されないんですよね。でも上の航空写真よりは古い家がはっきりします。