寝殿造 6.3.5     院御所亀山殿と弘御所     2016.12.26 

御所の概要

亀山殿はその名からも解る通り、亀山天皇に始まり後醍醐に至る大覚寺統に相承される山荘御所であり、場所は現在の天龍寺である。亀山殿の創立は後嵯峨院が始まりで、『皇代記』建長7年(1255)10月27日にこうある。

上皇嵯峨御所御移徒。件御所両三年之間大炊御門大納言実雄賜讃岐国造進歟。頗天下経営云々。

大炊御門大納言実雄とは西園寺公経の子洞院実雄である。3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父であり、そのとき正二位権大納言、正嘉元年(1257)11月26日に内大臣。その後右大臣から左大臣に昇進する。西園寺一門は西園寺公経実氏、そしてこの実雄と後嵯峨院以降の天皇を支えるとともに外戚でもあったということになる。まるでかっての摂関家だ。摂関家が交代しなかったのは、家業の固定化、官職請負制の進展でもあるが、逆に云えば摂関自体が有職故実化して実権の無いものになりつつあったということだろう。
「賜讃岐国」とは讃岐国を知行国としてもらったのだと思う。讃岐国と云えば伊予、播磨とならぶ国司の収入の多い国で、摂関期には摂関家近臣とか、院政期には院近臣でないと受領になれなかった国である。摂関や院が側近をそれらの国の受領にするのは、成功(じょうごう)という形で公私の支出を負担させるためだが、それが鎌倉時代でも続いているということは、国衙はまだ十分に機能していたということでもある。

後嵯峨院ののち、亀山・後宇多両院を経て鎌倉時代末期まで存続する。暦応2年(1339)には後醍醐院の御菩提をとむらうため天龍寺創建に際し、亀山殿の土地と建物はすべて新寺に寄進された。その天竜寺近辺である。西は小倉山(現嵐山)で、南は大井川(現桂川)で、大路・小路に相当するものは東にしかない。南西の大井川岸には納涼と遊行の為の桟敷殿があった。

寝殿造・院御所

寝殿の平面

『門葉記』文永5年(1268)10月23目曼荼羅供指図

『門葉記』に、文永5年(1268)10月23目の亀山殿・法事曼荼羅供の指図ある。この図には寝殿・東透渡殿・東公卿座・殿上・東中門廊・東中門・東門が記入されていて、南庭には東中門より道場寝殿南階に至る定道が敷かれて、導師大阿閣梨の外部より道場への参路を示している。

寝殿造・院御所


これを平面図に起こすとこうなる。殿上(侍廊)の梁行が一間ということは無いと思う。法事の指図に記録を残す僧にとってはここに殿上が位置したということ以上の関心は無い。

寝殿造・院御所

上の指図には寝殿東の北側に柱列が一列だけ記されているが、これは二棟廊だろう。「亀山院御灌頂記」にこうある。

寝殿東卯酉廊西ニヶ間為調支具所。東立十二天屏風。其前南北行並敷小文二帖。傍西障子叉一帖敷之為其所。(『続群書類従26上』、p.312)

寝殿東卯酉(東西)廊の西ニヶ間に小紋の畳みを南北行に二帖敷いているので梁行は少なくとも二間である。

『門葉記』嘉元3年(1305)8月19日 普賢延命法仏事

寝殿の指図には、『門葉記』にもうひとつ嘉元3年(1305)8月の普賢延命法仏事記の指図がある。修法により道場の室礼が変わるということだが、文永5年(1268)の「曼荼羅供」よりも道場の範囲は西に一間広がって、御聴聞所が北に移っている。

寝殿造・院御所


先の指図から37年経っているが、その間に建て直されたという情報は無い。同じ建物と見なすと、情報が少し増える。まず東面の南から二、三間が格子(蔀)である。そして道場北側、つまり母屋の北側の柱間に方立が書かれている。つまり少なくともこのときは北庇との境は妻戸により仕切られていたと見なされる。並戸である。なお、西一間は指図の外なので判らない。あと、母屋の両脇に柱が増えている。赤で示しておいた。東端は無ければおかしく、文永5年(1268)の指図には漏れていたとしか思えないが、東西の端から一間目の柱は本当だろうか。文永5年(1268)の指図には無く、梁を支える構造材としての柱というより、方立のように建具(襖)の為の疑似柱かもしれない。

寝殿造・院御所

なお北庇・孫庇だが、『続群書類従26上』収録の「亀山院御灌頂記」にこう書かれている。

内陣事並戸内東西行六ケ間〔七ヶ間内東一間依為障子外除之〕。南北行二ヶ間。乾角(北西)二ヶ間。放中障子入北閉格子障子所西面妻戸並正面戸外皆立廻屏風立花形壇。

庇と孫庇の区別は無くなっているようである。「亀山院御灌頂記」は指図は無いものの、実に詳しく書かれている。

それを踏まえながら、川上貢は最終的に下のような平面ととらえた。亀山院御灌頂は嘉元3年(1305)3月3日のことで、先の『門葉記』嘉元3年(1305)8月19日の普賢延命法仏事の約半年前である。まず、寝殿とその西の建物との造合(渡廊)を寝殿西面の北に置いた。これは上記「亀山院御灌頂記」に「南北行二ヶ間。乾角(北西)二ヶ間。放中障子入北閉格子障子所西面妻戸並正面戸外皆立廻屏風立花形壇」とあることからだろう。後の話題だが、この亀山法皇が灌頂のためにこの寝殿から造合(渡廊)を通って屋敷内西南の大多勝院へ向かう。その灌頂で「乾角(北西)二ヶ間」を設えているということは造合(渡廊)がそこに在るということだと私も思う。

寝殿造・院御所

寝殿北面は建具を特定していない。先の「亀山院御灌頂記」に「北閉格子障子」とあるのでそれを根拠に格子(蔀)としても良いようには思うが、川上貢は慎重である。なお、北庇の南側並度は初版の図では西端も妻戸としていたが、2002年の新訂版では不明としている。先の嘉元3年(1305)8月の指図にはこの一間は描かれていなかったからだろう。実に慎重だ。

しかし、東側の二棟廊は、前を弘庇としている。私の見落としかもしれないが、その根拠は書いていないように思う。文永5年(1268)の法事曼荼羅供指図での図中の書き込みからだろうか。実は私には読めなかった。当時の史料からの根拠があるのなら知りたいが。ひとつ疑問に思うのは、確かにこの時期、鎌倉時代後期以降、二棟廊に弘庇が付くが、それは透渡廊が消滅した寝殿造でだと思うが。つまり透渡廊の代わりの通路を二棟廊の弘庇が果たすようになったと。しかしこの御所では透渡廊がまだある。何のための弘庇なのだろう。

寝殿の東側

弘御所@川上貢案

『門葉記』文応元年(1260)7月仏事

『門葉記』によると文応元年(1260)7月5日、広御所を道場にして仏事が行なわれた。その指図(p131)には道場は五間×二間の南北棟である。

寝殿造・院御所

川上貢は先の『門葉記』文永5年(1268)10月23目曼荼羅供指図にある公卿座ではないかという。寝殿の東という理由はこうだ。

阿闍梨は桟敷殿の宿所を出て西中門より寝殿を経て道場に入っており、広御所が西中門の東、更に寝殿の東に位置したことを示している。したがって、広御所は寝殿の東方に在りそして東中門・東公卿座より内向の場所に設けられていたことがわかる。(p.131)

それはもっともだ。そう考えるしかない。それを公卿座ではないかという理由はこうだ。

これに該当するような建物を東中門の北、寝殿東に求めるとすれば、先出の文永五年指図にみえる東公卿座を除いては他に見出し難い。この東公卿座は柱間一ケ間の子午廊(南北棟)のようにみえるが、或いは柱の記入を省略したのかもしれない。また右の和歌御会の記事(後述)に弘御所と別に東公卿座が存在したようで、それならば文氷五年指図の東公卿座を弘御所にあてることは矛盾するように思える。しかし、公卿座の呼称をこの場合、建物にむすびついた固定したものとするよりは、行事の鋪設(しつらえ)の都度臨機に設けられる融通性のあるものと考えれば、別にこれに拘束されないと考えられる。したがって、弘御所は一応、寝殿の東に在って、寝殿と透渡殿及ぴ二棟廊の両者で連絡したところの子午屋、所謂対代に相当する屋と考えたい。その梁間数ははっきりしないが母屋に弘庇が直接した二ケ間であったろうと思う。(p.131)

名前を固定化する必要は無いという点はまことにその通りである。川上貢もどこかで触れていたが・・・見つけた。p.57 だ。この御所ではなく冷泉富小路殿のことだが、『とはずかたり』に著者の二条が後深草の御所に行くと、「御まヘ女はう一二人はかりにであるも、あまりあひなしとて、ひろ御所に、もろちか、さねかぬなと、をとしつるとて、めされて、うちみたれたる御あそひ、名こりあるほとにてはでぬれば」云々、とあり、弘御所は当番により伺候する公卿達の控室にも使われ、召された場合にのみ常御所の庇に伺候した、ということも背景にあるのだろう。する下の図のようになる。しかし川上貢は「母屋に弘庇が直接した二ヶ間」と書くが、母屋梁行が二ヶ間で弘庇が付くというのか、母屋と弘庇で梁行二ヶ間のつもりなのか良く解らない(後者のつもりだろうが)。なお、弘庇はそれがあるから弘御所という。指図には両端に三本の柱はあるが、内部に柱は描かれておらず、入側柱があって、母屋と弘庇では下長押分の段差があるはずで、それではこの室礼は出来ないと思う。なので梁行二ヶ間+弘庇に描いた。

寝殿造・院御所


ところで、建具については『門葉記』が引用する別の法事、「有快法印記」に記されているのだが、これが良く解らない。『門葉記』の指図の上下左右にも「北西」「北東」とか「南西」「南(?)東」と書かれている。弘御所は南北棟ではなく、「北東」から「南西」傾いているのか。「有快法印記」の引用とはこれである。

有快法印記云、広御所南北ハ東西三間也、東西ニハ皆蔀御簾ヨリ其内ニ引大幕、西南ハ皆障子也、北西同、南面又障子、其上ニ御簾アリ、即御聴聞所也云々

さっぱり解らない。「南北ハ東西三間也」とはどういうことだ。頭がおかしいんじゃないか。だいぶ悩んだが、この「西」を「面」の誤写としたらどうだろう。

有快法印記云、広御所南北ハ東三間也、東ニハ皆蔀御簾ヨリ其内ニ引大幕、西ハ皆障子也、北同、南面又障子、其上ニ御簾アリ、即御聴聞所也云々

『門葉記』は比叡山・青蓮院門跡に受け継がれ保有されていた諸記録を、鎌倉時代末から南北朝時代の延文元年(1356)までに伏見天皇の第6皇子で青蓮院門跡、天台座主の尊円法親王が書写し集大成したものである。文応元年(1260)7月には尊円法親王はまだ生まれていないので当然これは書写。尊円法親王も頭を抱えたのではなかろうか。古文書は活字でも楷書でもなく、筆によるくずし字なのだ。尊円法親王も、書かれた「面」が「西」としか読めず、私のように方位が傾いた建物と理解して上下左右に「北西」「北東」とか「南西」「南(?)東」と書いたのかもしれない。ここでは「西」は「面」の誤写と考えることにする。するとこうなる。この場合の障子は遣戸だろう。遣戸でも外に面する部分では舞良戸(まいらど)、室内の仕切りの場合には今の襖だろう。

室内の遣戸でも板戸、明障子(今の障子)、今の襖があり、当時今の襖は今の障子の10倍ぐらい高価だが、ここは院御所で、その中でも御所と云われる場所なので。

 

建治2年(1276)8月、和歌御会

さて、先の川上貢からの引用中で「和歌御会の記事(後述)」と書いたその和歌御会の記事が次ぎである。

建治2年(1276)8月19日に、この弘御所で和歌御会が行われたとの記録が吉田経長 (1239〜1309) の日記『吉続記』に残る。改行は私が追加した。このとき吉田経長は正四位下・左大弁兼蔵人頭で公卿ではなく殿上人である。集まったのは公卿15名、殿上人6名。

建治二年八月一九日条
天晴、未斜参亀山殿〔束帯・侍一人召具之〕、今日可有和歌御会〔略〕、丼御遊、別当奉行也、(中略)、
歌仙等漸参集、以弘御所為其所、御装束如常〔但披撤置物厨子、敷高麗端畳、二行対座也、座末遣戸開之、為参進之路也〕、
御所厩(ママ)上南面三ケ間敷高麗畳、同長押下敷紫端帖、為殿上人座、此所立置物御厨子〔本披立庇御所御厨子也〕置楽器、
入夜弘御所上下立高燈台、大理被催沙汰之、人々未参集、御随身久則久頼下臈三人候中門辺、頃之殿下御参、前内府未参、頻被催、自余公卿皆候東公卿座〔座上下挙灯〕。
人々皆参之後、大理申其由、出御〔御直衣〕、摂政殿令参給〔以大理告申出御之由、内々御祗候也〕、次以大理召諸卿、前内府以下着座〔摂政殿奥座、前内府端座也、奥端各相分着座、公卿各直衣〕・・・
 (『増補史料大成』第30巻、pp.367-369)

なお川上貢は注記18(p.133)にこの部分を漢文で引用しているが「自余公卿皆候東公卿座、〔座上下挙灯〕」を「自余公卿座、〔座上下挙灯〕」と五文字落としている。結論に影響はしないだろうが。

「御所厩上」に置かれた「御厨子」は「本披立庇御所御厨子也」とある。最初は庇御所を弘御所のここと思っていたが、寝殿北庇の常御所のことではないか。「大理」は「内裏」で亀山上皇のことではないかと思う。

「座末遣戸」から南側が遣戸であることが解る(座末なら板戸かもしれない)。「有快法印記」と同じだ。上座は北なのだろう。「自余公卿皆候東公卿座」が出てくる。先の川上貢からの引用のこの部分である。

和歌御会の記事に弘御所と別に東公卿座が存在したようで、それならば文氷五年指図の東公卿座を弘御所にあてることは矛盾するように思える。(p.131)

名前を固定化する必要は無いという点はまことにその通りであるのだが、何で「御所厩上南面三ケ間」」を「殿上人座」としたのだろう。弘御所が公卿座なら殿上、つまり侍廊はすぐ傍ではないか。それに弘御所が公卿座なら公卿座の西面は遣戸ということになる。中門から中門廊に上がり、渡廊から寝殿、あるいは公卿座を通り二棟廊というのはハレ向きの重要経路である。御所であればハレ向きには格子(蔀)が普通ではないか。

弘御所A、別案

そこで別案を考えてみた。弘御所を東公卿座とは別の建物としたのである。弘庇を遣戸障子で区切ったのは二回の仏事での聴聞所からである。殿上(侍廊)を大きくしたのは冒頭の『門葉記』文永5年(1268)10月の指図のような梁間一間の侍廊など見たことが無く、『門葉記』の指図は位置を示しただけと解釈した。

寝殿造・院御所


弘御所はケ(褻)の場である。ハレ(晴)の場には参上できない身分のものまで呼んでのプライベートな遊びの場である。

厩上

厩上もそうだろう。それを厩と平行する馬を鑑賞するための建物と理解した。「厩上」だから厩の北側かもしれないが、ここでは上を寝殿に近い方と考える。「南面三ヶ間」とあるので東西棟、少なくとも四間以上の建物。「長押下」と あるので母屋と庇の梁行二間。南北のどちらが庇かというと「南面三ヶ間桟敷」から南が母屋で北に庇が付くと理解した。それが「和歌御会」メイン会場の弘御所のすぐ近くにある。西か東にかは判らないがとりあえず東側とした。その声が聞こえる処のはずである。そこで楽器を弾くのか、あるいは呼ばれたら楽器を会場に持って行くのかだから、弘御所が公卿座の北なら殿上(侍廊)は少し離れてしまう。なので厩上を殿上人の座としたと。

御所厩上南面三ヶ間と同長押下を殿上人座とし、余の公卿は東公卿座に、そして随身下臈を中門辺に伺候せしめたとある。即ち、弘御所のまわりに東公卿座・御厩上・中門が所在していたことを推測させる。(p.130)

というのが川上案の理由なのだが、弘御所のまわりに中門が所在というのは東公卿座・御厩上と同等に考える必要はない。前内府とか公卿クラスは正門、中門、中門廊から入ってくるので、「御随身久則久頼下臈三人候中門辺」は当然だろう。この会に和歌の達者な身分の低い者が参加したかどうかは解らないが、居たとしたら彼らは四脚門の正門ではなく、北の棟門から入ってくる。

そしてこの位置なら、西面が遣戸であるのは腑に落ちる。鎌倉時代には遣戸はかなり広まり、絵巻などでも沢山出てくるが、それは上流階級ではあってもまだ身分の低い者の家であり、それに対してここは最も格の高い院の御所なのだ。ケの空間以外に外部との境に遣戸(舞良戸)を使う訳は無いと思う。もちろんこうであるという確実な根拠は無いし、川上案の方が可能性は高いかもしれない。しかしこの別案も、位置関係では結構うまく収まっているのではないだろうか。

寝殿の西側

その他、史料には西公卿座、造合、大多勝院、西中門が出てくる。西中門は寝殿の階より南八丈、西七丈の位置にあることが史料に書かれている。解らないのは西公卿座、造合、大多勝院である。川上貢はこう書く。

大多勝院は前述のように寝殿西方に、そして西中門にも近く位置していたようであるので、寝殿と大多勝院は西造合で連絡していたと見倣される。なお、大多勝院は東と南の両面に階があり、東階より降りた公卿が南階の東に伺候しているから、大多勝院の東面より南面にいたる東南角は廊などの施設のもうけがなく開放されていたと思われる。そこでまた、大多勝院と西中門を連絡する廊は大多勝院の西寄にもうけられていたことになる。この西中門廊に相当するものが前記の西公卿座ではないか。西中門より寝殿正面南階まで「南行八丈西折七丈」の筵道が敷かれ、大阿闍梨入堂参路の鋪設が行なわれているが、寝殿南階より西中門まで七丈を数えたとすれば、寝殿東半の四間、西造合五間、大多勝院二間をその間にあてはめると、ほぽ両者の長さは一致するようである。(p.130)



配置図

川上貢は大多勝院の位置は大体判るとするが、はっきりとは書いていない。太田静六の、判らなくとも想像で書いてしまうというスタンスとはだいぶ違う。そこは信頼出来るのだが、大体は判ると書いているその内容に納得出来ない。

図@、川上貢配置図 

川上貢がこの配置図を書いている訳ではない。川上貢説では図が書けないということを検証するために私が作図しただけである。あり得ない。なによりも「亀山院御灌頂記」にある「大多勝院東端北折中央開門〔当西中門〕」や「大阿闍梨降西沓脱」に適合しない(後述)。

寝殿造・院御所

図A、別案

そこで、辻褄の合いそうな別案を書いてみた。あくまでとりあえずである。大多勝院は最低四間四方であるが、後述の通りここでは五間四方に描いてみた。

下の図は第2判である。奈良国立文化財研究所の本中真氏は「亀山殿庭園における眺望行為」という論考を『造園雑誌』Vol. 47 (1983) No. 5 で発表されており、その図を検証しているときに第一版の私の図にはかなり無理矢理感があることに気がついた。

寝殿造・院御所

この図は柱間寸法を全て一丈としているが、透渡殿や作合は8尺とすると計算は合う。

以下はその個々の検証である。

西中門

西中門の位置だが、「亀山院御灌頂記」にこうある。

西庭傍池汀東西行当大多勝院東端北折中央開門〔当西中門〕、・・・当門開戸自南階下、南行八丈西折七丈敷筵道(『続群書類従26』、p.312)

まず「西庭傍池汀東西行」で西庭に池がある。それが7丈(約21m)の内であるのか外であるのかは判らないが、少なくとも中門は大多勝院の西ではない。中門が大多勝院の西にあったなら池など作る場所は無い。川上貢は先の引用文の中 で「大多勝院と西中門を連絡する廊は大多勝院の西寄にもうけられていたことになる」とは書いた。確かに「中門が西側」とは書いていないが、少なくとも西中門は大多勝院の東寄りである。

『門葉記』「文応元年(1260)7月9日「六字河臨法現行記」にこうある。なおこのときの道場は弘御所である。

関白亥刻自桟敷殿御参〔歩儀〕、雇従〔経深僧都〕、従僧六人取松明、後御同自西中門経寝殿御参道場

関白はこの大多勝院の更に南、または南西にある桟敷殿から歩いてやってきて、この西中門を入って、おそらくこのあと出てくる西造合経由で、寝殿の簀子縁を通り、道場である弘御所に向かっている。つまりこの西中門は屋敷内南西の大井川岸の桟敷殿への出入りにも使われる。


大多勝院

先の川上貢の引用の中にこうある。

大多勝院は東と南の両面に階があり、東階より降りた公卿が南階の東に伺候しているから、大多勝院の東面より南面にいたる東南角は廊などの施設のもうけがな く開放されていたと思われる。そこでまた、大多勝院と西中門を連絡する廊は大多勝院の西寄にもうけられていたことになる

以下は嘉元3年(1305)3月3日の「亀山院御灌頂記」の引用1である。

先之公卿等皆経廻西中門。但内大臣家平。按察大納言〔?〕、西園寺大納言〔?〕、三人為扈従留候。能助経大多勝院南東簀子。参寝殿西面妻戸口蹲踞申案内。(『続群書類従26』、p.315)

「参寝殿西面妻戸口蹲踞申案内」は内大臣家平、按察大納言、西園寺大納言の三人か、それとも法印能助か。このあと亀山法皇の出御。威儀僧が寝殿西面妻戸より「居箱」「香呂箱」などを持って後に従い、内大臣以下三人はその後ろに続く。威儀僧は大多勝院「後辺」に居たが、この前に「作合辺」に移動している。なお威儀僧の一人は役が無かったので庭に居たと割書にある。

引用2

入御大多勝院南面西端間〔内大臣候御簾〕、受者加持了、大阿闍梨本路退出、此間公卿降庭口列居大多勝院南欄下〔東上南面〕、殿上人候中門外。(『続群書類従26』、p.315)

引用3 

法皇出御〔同表?御簾〕、令到中門切妻給。爰(?)予進参申民部卿云。僧正以下四人遅参口如何。只可被始云々。仍申此由於大阿闍梨。(『続群書類従26』、p.316)

「〔同表?御簾〕」は「表」だと思うが字が滲んでいてはっきりしない。大多勝院南面、弘庇に出る柱間に御簾を垂らしているのでそこのことか? とすれば「表」と読んで意味は通じる。 「爰」の読みは「ここ・に」と。「このとき」の意味か? 「令到中門切妻給」とあるので、南庭には降りずにそのまま中門南廊を中門に向かっている。

引用4

此間上皇〔御直衣御冠〕、出御自寝殿西造合、内大臣按察大納言御共。下御自大多勝院南階。右大弁宰相定資卿進御沓。主典代伝之。内大臣大納言等降自同院東沓脱。候南階下〔東〕、御随身副砌供奉。発前音。下御之後。候南階東辺。上皇令懸御尻於床子御。誰人進口哉。可尋記之。大阿闍梨降西沓脱。不及着鼻廣。依垂役人之使。色衆叉同前。一向所着草鞋也。法皇降切妻沓脱令立賜。(『続群書類従26』、p.316)

1305年であるので、法皇は亀山法皇で上皇は後宇多上皇だろう。 上皇は「寝殿西造合」から大多勝院に来て南階より下り、床子(椅子)に座っている。そのあと法皇が切妻沓脱より下りている。切妻だから西か東だろう。「色衆」とは威儀僧のことか。

ところで、「出御自寝殿西造合、内大臣按察大納言御共。下御自大多勝院南階」から「内大臣大納言等降自同院東沓脱。候南階下〔東〕」が、川上貢が「大多勝院の東面より南面にいたる東南角は廊などの施設のもうけがなく開放されていたと思われる」という根拠である。それは問題ない。しかし「寝殿と大多勝院は西造合で連絡していたと見倣される」というのはどうだろうか。上記引用の次ぎの行を見て欲しい。「大阿闍梨降西沓脱」とある。西も東も条件は同じで「寝殿と大多勝院は西造合で連絡していたと見倣される」とは云えない。従って川上貢説によって作成した図@は破綻する。と云っても図にしたのは私だが。

大多勝院本堂から中門まで

大多勝院本堂東面の北に中門南廊が中門まで伸びていると推定する。時系列ではその少し前になるが、同じ「亀山院御灌頂記」にこうある。

登西中門外、経西北自大多勝院後戸参着、受者加持御座能助法印、更出経北西ニ面出南面〔通相障子〕(『続群書類従26』、p.314)

中門外には「年中行事絵巻」のこの図のように縁があり、中門北廊なら侍廊に入れる。この場合は中門南廊だが、先の絵には南にも縁の端が描かれている。「年中行事絵巻」のモデルである東三条殿ならその先は車宿だが、亀山殿の場合は大多勝院である。洛中の方一町の屋敷では大多勝院ほどの大きな堂はあまり無いが、念誦堂が中門南廊の先にある例は西園寺家の北山殿常盤井殿持明院殿なとに見られた。「登西中門外」なのでその縁づたいに大多勝院の縁に上がったのだろう。

大多勝院の平面

そして「経西北自大多勝院後戸参着」は、大多勝院での僧の控室(北西ニ面)が堂の西北(この後の図の黄色の部分)で、大多勝院の縁の西北から堂の中に入ったということだと思う。その後の「能助法印、更出経北西ニ面出南面〔通相障子〕」は、能助法印がその部屋の南の障子から内陣に入ったと云うことだろう。
大多勝院は南を正面としており、南は勿論本堂内陣と外陣。すると北の「経西北自大多勝院後戸参着」した場所は僧の控え室ということだろう。「北西ニ面」は北面の西二間と、西面の北二間と二通りに解釈できるが、素直に受け取れば、大多勝院北側一間の西側二間だと思う。南に弘庇があるというので、それを含めて大多勝院は最低でも4間×4間。その北で廊とつながっているとみるのが自然だろう。

鎌倉時代には、先に触れたとおり、洛内の寝殿造でも中門廊の先に念誦堂が、車宿や随身所と横並び で作られることが多い。しかしそれは常磐井殿でも方三間程度であった。方一町の屋敷ではそれほど大きな持仏堂は作れない。作るとしたら近衛家のように隣の方一町を使う。しかしここは郊外の院御所である。ここには大多勝院だけでなく、他にも堂を建てている。伏見殿の九体堂には北に廊が付随していた。それと同じように北に、そこに詰めている僧の休憩室か、院の休憩室かがあったのだろう。

堂の大きさは、川上貢が p126で『門葉記』の長い引用の中にこうある。

御堂南面丼御聴聞所妻戸等四ケ間。覆御簾為上皇御在所。

南面は少なくとも四間、普通に考えれば五間はあったのではなかろうか。藤原定家が1/4町の屋敷の一角に建てた持仏堂ですら行間寸法は小さめなものの五間×五間である。試しに弘庇を含み四間×四間と五間×五間の両方の平面図と、参考までに正和2年(1313)伏見殿の九体堂の平面図もあげておく。

寝殿造・院御所寝殿造・院御所

亀山殿大多勝院の四間四方と五間四方の推定図

寝殿造・院御所

正和2年(1313)伏見殿の九体堂

造合

この言葉は初めて出てくる。『建築大辞典』 では 「二つの屋根の出合う部分、ここでは雨が溜まるので桶をもってそれを受ける」とある。私が知っている実例は春日大社これぐらいである。常磐井殿の対代関連にも出てくるが少し様子が違う。川上貢は、東西行の柱間が少なくとも五間で「造合と呼ばれているからには寝殿と他の建物の中間に位置していたことはまず疑いない」という。寝殿以外の他の建物とは何かと言うと、東西行の柱間が五間以上では『建築大辞典』イメージだと桁行、ないしは梁行五間以上の建物の、五間以上の寝殿との接合部分では該当する建物が思いつかない。同じ「亀山院御灌頂記」では、

出御自寝殿西造合。内大臣按察大納言御供。下御自大多勝院南階。右大弁宰相定資公卿進御沓。主典代伝之。内大臣大納言等降自同院東沓脱。候南階下〔東〕

つまり上皇が寝殿から西造合経由で出て、大多勝院の南階段から下りたと。そのことから川上貢は寝殿西方、西中門近くの大多勝院との通路と見ている。

寝殿西造合。傍北杉障子西二ヶ間東西行敷小文二帖為威儀僧座〔三昧耶戒之間着之〕。其西三ヶ間妻戸下格子覆御簾為護摩所。

妻戸や格子で外界と仕切る建具を装備し、透渡殿でなかったようである。床のある、建具に覆われた単廊というところだろう。

この平面だが、書かれている桁行が五間ということは解るが、図にしようとすると良く解らなくなる。まず「傍北杉障子西二ヶ間」はその後に「其西三ヶ間」が出てくるのだから寝殿から見て最初の二ヶ間、造合だけで見ると東側二ヶ間の北が杉障子で、そこに畳を二枚横に並べたということか。「其西三ヶ間」は造合の西側であることは自明だが、「妻戸下格子覆御簾」とは何だろう。両開きの妻戸が三つ並び、その下に格子を填めた? しっくりこない。「西三ヶ間妻戸」を切り離すと「下格子覆御簾為護摩所」は「西三ヶ間」の南側とも読める。亀山殿を知っている者になら自明なのだろう。それを知らなくとも、格式ある院御所なのだから南が格子(蔀)であるのは当然に思える。すると、西三ヶ間の北側は妻戸、南側が格子(蔀)で、護摩所にするのだからそれを閉じ、御簾を垂らしたと。

寝殿造・院御所

もっともこのような形で中門廊が伸びていれば西端一間の南側は格子(蔀)では無いが、それを除いて南側は全て格子で、東の二ヶ間は少なくとも上は開いたと。こんな廊下が護摩所になるのか、と思うかもしれないが、寝殿造の柱間寸法は約3m。マスひとつが4畳半よりちょっと大きいぐらいである。この平面図には自信は無が、「妻戸下格子覆御簾」はこれ以外の状況は思い浮かばない。

この「灌頂記」の記者は門跡の弟子で、灌頂の室礼の責任者である。この記事は室礼の記録であって建物の説明ではない。建物はみんな知っているという前提で書いている。まさか何百年も後に、この院御所を知らない人間が読むなどとは夢にも思ってはいない。

ところで西側北面の三つの妻戸は何だろう。寺院では金堂や講堂の正面全てを妻戸にする例は多いが、寝殿造で、先に何も無い処に妻戸を付ける訳はない。次の西公卿座の南にも妻戸が二つある。三つの内二つはこれではないだろうか。三つの内のどの二つかは解らない。とりあえず西側二つを西公卿座の妻戸として先の全体図を描いてみた。そうだとすると西側二つの妻戸は造合側に開くはずだ。西側から三つ目の妻戸は何だろう。こちら側に弘庇、あるいは広い簀子縁と考えれば一応話の辻褄はあう。これぐらいの中庭なら蹴鞠ぐらいは出来るだろう。

西公卿座について記述があるのは川上貢によると『門葉記』嘉元3年8月19日で、西造合の記述は嘉元3年3月3日の「亀山院御灌頂記」。つまり別の仏事である。片方の記載で妻戸が閉じ、もう一方の記載では開いていても別に矛盾はしない。なお、川上貢 p.129 には

寝殿西ではAの鋪設記事によると、西公卿座と西造合がみえ、まず前者は、・・・とあり、後者については、
・・・とあって

と、両方とも「Aの鋪設記事」、つまり『門葉記』嘉元3年8月19日の「亀山殿普賢延命法仏事記」の記載であるかのように書かれているが、後者の引用は川上貢の云う@「亀山院御灌頂記」からのものである。

寝殿西ではAの鋪設記事に西公卿座、@の鋪設記事に西造合がみえ、まず前者は、・・・とあり、後者については、・・・とあって

の書き間違えではないだろうか。『門葉記』は簡単に見れるものではないので確認のしようが無いが、少なくとも「後者については、・・・とあって」の「・・・」の部分は『続群書類従.第二十六輯上』収録の「亀山院御灌頂記」と全く同じである。ミスといっても小さなものだが私はしばらくこれで迷走した。

西公卿座

西公卿座については『門葉記』嘉元3年8月19日の寝殿で行った「亀山殿普賢延命法仏事記」にこうあるらしい。 前述の川上貢 p.129 引用での「まず前者は、・・・とあり」の「・・・」の部分である。

西公卿座取除中障子。東西(面ヵ)下格子覆御簾。西面上格子巻御簾。北面閉戸。南面東妻戸間之覆御簾。西妻戸開之巻御簾。傍北立山水屏風一帖。前敷小文一帖。東西相対各小文二帖紫一帖。南端。南北行寄南敷之為衆僧集会所。

つまり西公卿座では中を仕切っていた障子(今の襖)を取り除き、東面は格子を下げて(閉じて)御簾を垂らし、西面は格子を上げて(開けて)御簾を上に巻き上げて開放し、北面は戸(遣戸か)を閉め、南面には妻戸があってそれを開き、御簾を巻き上げている。ん? 今気がついたのだが、「南面東妻戸間之覆御簾。西妻戸開之巻御簾」ということは南面には妻戸が二つあるということか。梁行二間ということか。図を修正しておく。 

そして内部の室礼は、その南面妻戸の内側に山水屏風一帖を立て、その前に小紋の畳みを一枚敷く。あとは東西にそれぞれ向き合うように、小紋の畳みを二枚、紫縁の畳みを一枚を、南北に細長いスペースの南寄りに並べ、衆僧の控え室、休憩所としたと。ちなみに畳みの大きさは現在よりも一回り大きく、長さは8〜9尺、だから10尺程度の柱間に一枚で、三枚並べるとそれだけで三間、山水屏風と畳み1枚の分を加えると四間、南寄りにというのだから五間かもしれないが、ここでは四間に描いた。梁間二間と読める。

ここからは空想だが、大阿闍梨を先頭に僧がここにやってくる。大阿闍梨がまず上座に座り、その前を配下の僧が通って自分の席へ、などということはありえないだろう。列は西妻戸から入り、そのまま直進して北端で東を向き、東の間の畳みの間を直進して上席がまず着座し、そのあと位や年期の順に自分の座に座る。出て行くときには上席がまず座を立ちそのまま西妻戸へ、そのあと他の僧が位の順に座を立ち、南に進んで順に西妻戸を出る、というような動線のために「南北行寄南敷之」で北端を開けたような気がする。なお、北は妻戸か舞良戸か解らない。

寝殿造・院御所

紫縁の畳よりも小紋の畳みの方が格が高い。おまけに南端は屏風付きで、ここだけ対座ではない。上席だろう。梁間二間の内、畳みを敷く東側は格子(蔀)を下ろして御簾を垂らし、西は開放している。この形なら南で何かに接続していることになろう。やはり西公卿座は西中門廊ではなく、造合の西端から北に延びて、普段は障子で二つか三つに区切られていたのではないだろうか。中門廊は仕切ったりしない。そもそも片面は壁、内側は吹き抜けだ。東西どちらにも格子(蔀)があるなら中門廊ではないだろう。この図のように南で造合に接続すると見るのが妥当だと思う。


初稿 2016.10.17