武士の発生と成立   兵(つわもの)の家

「平家物語」などで「やあやあ、我こそは俵藤太秀郷から十代・・・」などと名乗るときに出てくるのはほとんどが藤原秀郷、平貞盛あるいはその従兄弟達、藤原利仁将軍、そして源氏です。

平将門の天慶の乱の少し後、10世紀後半当時の京都の人口がどれぐらいであったのかは解りませんが、軍事力とも言えない警察力はどうも微々たるものであったようです。左右の近衛など六衛府(近衛、兵衛、衛門)が本来の軍事警察力であったはずですが、近衛府の中将、大将は公卿(三位以上)の家柄の青年部みたいなもので職業軍人とは言えず名誉職になっていたようですし。近衛府は空洞化し宮中警護は滝口が、後には北面の武士が、町中の警護は検非違使が担当しますが、大した数ではなく、それぞれ10〜20と言った程度だったようです。
何か事が起きると、と言っても内乱とかではなく強盗の類でも、その捜索(索盗・大索)には「諸衛佐以下舎人以上」に加え「武勇に堪えたる五位以下」を召集し、このときだけは弓矢の携帯を許し、馬寮より馬を支給して捜査に当たらせたと。 (高橋昌明「武士の成立・武士像の創出」p93)

ちなみにこ当時、最も恐ろしい兵器は弓矢でちょうど今の銃砲に相当し、故に京では携帯を禁止されていたようです。宮中警護の滝口ですらです。それが許可されるのは天皇直々に命令を下したときだけ。大索はそれに当たります。それに召集されることが「兵の家」のお墨付きのひとつになったのでしょう。こうして衛府の官人以外の「兵の家」が社会的に認知されていきます。

例えば「栄花物語」(巻五・浦々の別)には、藤原伊周・隆家が失脚した長徳の変(996)の時に召集され内裏を警護したのが、「陸奥国前守(平貞盛の子)維叙、左衛門尉維時(平直方父)備前前司頼光、周防前司頼親(大和源氏:頼光弟)など云う人々、皆これ(源)満仲、(平)貞盛子孫也。おのおの兵士ども、数しらず多くさぶらう。」 とあります。この内現役の武官は左衛門尉維時(平直方父)だけです。
にもかかわらず「皆これ満仲、貞盛子孫也」、つまり天慶の勲功者の家が「兵(つわもの)の家」として高い評価を得て、郎党を引き連れて内裏の警護に動員されていたことを示しています。

かつての歴史学界で「武士」は前九年、後三年の役の源頼義・義家とその率いる郎党達からを言うとの雰囲気があったと言うのはこの「兵(つわもの)の家」が完全に認知された後の、と言う意味で考えておけば良いのではないでしょうか?
もっともこの「兵(つわもの)の家」がどの程度確固たるものであったのかと言うと、必ずしも絶対条件と言う訳ではありません。京の公家社会の中ではそういう見方が強かったと言うことです。これは新興勢力「兵の家」と言うより、ちょうどその頃始まった半母系の崩壊?、父系の「家」、「家業」の固定化の始まりのなかに「兵の家」も「家業」として他と同時に認識されていった側面もあるのではないかと思います。時期としては院政の始まる頃、ちょうど源頼義・義家の頃です。