2012.11.10  高井戸の屋敷森とシャンベルタン  

高井戸の歴史

1947年11月。終戦から僅かに2年後の高井戸の航空写真です。私はまだ生まれていませんし、祖父すらまだ高井戸には越していませんから、「我が家」というのは後の我が家の場所という意味です。あれ? 高井戸中学が更地だ!

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江戸時代にはこのあたりは、初期には高井戸村、その後上高井戸村、更に明治22年に上下高井戸村、大宮前新田、久我山村など6ヶ村を合併して高井戸村になったそうです。地名(字)は、現在の高井戸駅の東を神田川を境に北が「正用」、南が「築田(佃)」。駅の西は「打越」です。「正用」も「佃」も平安時代後期なら在地領主の「堀之内」。屋敷に付随する田畠に由来する地名です。

上の航空写真でも解るように、神田川沿いの低地は私が子供の頃でも水田だったし、中世でもこういう川沿いに在地領主は開発を進めていました。しかし、それらの地名がついたとき、誰の正用、佃であったのかは全く解りません。高井戸が文献に出てくるのは小田原北条氏の時代。北条氏綱が1555年に検地を行ったあと、1559年(永禄2)の「小田原衆所領役帳」に「大橋(苗字のみ)、20貫文 無礼、高井堂」とあるのが初出で、「無礼」は「牟礼」、「高井堂」が「高井戸」です。

単純に考えると1貫文が2石だから40石? 違うでしょうね。江戸時代前期の延宝2年つまり1674年の検地で、高井戸村は水田21町4反歩、畑が172町で1,037石。下高井戸村は水田16町5反歩、畑が140町歩で861石です。上下高井戸村だけでそうですから、100年ちょっと前でも牟礼・久我山まで含めた石高が40石とは考えられません。桁が違いすぎ、小田原北条氏に対する役務供出義務ぐらいの意味ではないかと。川とその周囲の窪地、氾濫域が水田になりますから「正用」「佃」だけでも米40石は超えそうです。1町歩は100m四方。奈良・平安時代でも水田1町歩で7石から14石(平均10石)ぐらいの生産高はありますので、江戸時代なら20石は採れるかも。

さて、その航空写真の黄色い線で囲ったあたりの現在(何年か前)の航空写真が下です。水田など何も無く、家やビルが密集していますが、一部に1町歩以上のまとまった広さの緑が。実はこれらはみんな内藤各家の屋敷森。実は高井戸には内藤さんが多いんです。我が家の直ぐ近くの家も内藤さんでしたし、私の中学のクラスメイトでよく一緒に遊んでいた友達にも内藤君が居ました。でもいまだに1町歩前後の屋敷森を残しているのはこの三箇所だけだと思います。今回はその屋敷森を見ていきましょう。

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屋敷森?

荻窪の我が家から高井戸に向かうとき、大抵はあの春日神社から富士見ヶ丘へ戻り、途中の久我山街道(現人見街道)を左に折れます。するとすぐにこんもりした森が。

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 これが「内藤家?」の屋敷森です。「?」が着くのは東側半分の表札が確認できないので。でも西側が内藤さんなので東側もそうだろうと。

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真ん中に小径があるのですが、その両側を合わせると1町歩はあろうかと。

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その小径です。私が中学生ぐらいの頃からこの小径はあったような。というのは中学の1年ぐらいの頃にちょっと好きだった女の子がこのあたりに住んでいたんですよね。カマキリなんてあだ名を付けましたが。何でだって? 単に丸顔ではなくてほっそりした顔立ちだったってだけですけどね。

ひどいやつだって? そんなこと言ったって、このイケメンな私のあだ名は「ガマ」だったんですぜ!
仇名は態を現してはおりませぬ。 ん? 誰ですか、おまえはそのまんまだなんて言う人は!(怒)

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その脇の朽落ちそうな家は関東大震災か、戦後すぐに建てられた貸家じゃないでしょうか。関東大震災の後に高井戸には沢山貸屋が建てられたそうですから。地図で確認したら、昭和14年の地図にもこの小径が出ていますね。おっ、昭和5年にも。明治27年も。あれ? 明治27年の地図にこの右の道沿いに2軒の家が。道の向かいにも。もしかしたら久我山街道(現人見街道)沿いの商店街だったんでしょうか? 貸家説は薄れてきました。明治13年の地図はこの少し南側までで、ここの部分は持っていないので判りません。

見て下さいあの屋根の下の塗り壁。昔は柱の間に木舞(こまい)と呼ばれる竹を格子状に組んだ枠に、わらを混ぜた土を塗り込め、その上に白い化粧土を塗ったんです。明治27年の地図に出ている家とまでは言いませんが。今はその小径のちょっと奥の両側に農家らしきお宅がありますが、昔の地図には痕跡が無いので屋敷森とは言いにくくなりました。昭和22年頃の航空写真にこの家は写っていても、こんな林ではなくて、畑みたいだし。

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高井戸のシャンベルタン

その向かいは、今はマンションが建っていますが昔はシャンベルタンというフレンチなレストランが有りました。並みのフランス料理屋では御座いません。日本だけなら味も、お値段も三つ星クラス。まさかそんな店とは知らずに、最初にランチタイムに入ったときにはビックリ仰天。中は貴族のお屋敷みたいな感じで、入っちゃった以上逃げ出す訳にもいかず。しかたなしに注文したのが鴨の赤ワイン煮だったかな?

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その後、一番下の妹を連れて行ったことがあります。ちゃんとしたレストランに男一人でってのはマナー違反に等しいので。

そのとき食前酒に飲んだブランデーが、え〜と、ちょっと待ってください。グラン・シャンパーニュで・・・。見つけた! ジャン・フィューです。セプ・ドール(黄金のブドウの樹)を名乗ることのできる唯一のブランデー。あれ? 今だと意外に安い。当時セプ・ドールは三万円ぐらいだったような。でも瓶が二種類ある。やっぱり金色の網がかかってる黒い瓶でないとね。

でもそのお店で一番印象に残っているのは中学3年の頃から好きだった同級生と行ったことです。もちろん中学3年の頃ではありません。その15年も後、1980年の6月8日のこと(ワインラベルのコレクションに日付が)。

15年間つかず離れずで、つきあっていたとも云えず、手をつないだことだって、中学の時にクラスで千駄ヶ谷のアイススケート場に行ってそのとき1周だけ。あとは高校の文化祭のお化け屋敷で。大学以降も雑踏で1度ぐらいはあったかしら? 
でも時々会っていたって変な関係。何で15年間も進展無しなんだって? 私の劣等感です。中学の頃からその子は秀才でねぇ。あたしゃぼんくら。

昔はですよ、今では私は新進気鋭の若手研究者、大器晩成なのです! 
何処が若手だって? デビューが3年前ですから立派な若手♪ 

おまけにその子のお父さんは大新聞社の論説委員でお母さんは某女流作家の仲間。弟さんも東大で。それに比べてこちとら町工場の倅で肉体労働者ですぜい。フキフキ ""A^^;
銀座のソニービルの1階(当時)のカーディナル(写真は娘)でデートしたときに、彼女は、お父さんの勤め先が近くだったので、待ち合わせてソニービルの地下のマキシムで一緒に食事したことがあると。彼女は単に亡くなったお父さんのことを思い出しただけなんですが、でもこっちはビビリましたわさ。
今にして思えば劣等感なんて屁のつっぱりにもなりませんね。無用の長物です。百害あって一利無し! その頃からそう達観出来ていれば私の人生も変わっていたかもしれません。

彼女の中学の修学旅行の写真を当時のアルバムから発掘しました。スキャンして拡大してみたら・・・、美人、かわゆい。大損こいた! (泣)

その彼女と何でシャンベルタンに行ったかというと、彼女が結婚したんです。ほかの男とね。(泣)
精一杯のお祝いに、彼女が気に入りそうなロイヤルドルトンのティーカップとシュガーボウルのセットを送ったところ、「お返しに某国迎賓館の門外不出のワイングラスをあげる。直に渡したい」と。 
それでシャンベルタンに予約を入れ、ソムリエにデキャンタをお願いしたワインがラターシェの1971年。今ほどべらぼうな値段ではなかったですが、それでも私の一生で一番高いワイン。


それよりもなによりも、「赤ワインて美味しいんだ!」と思ったのもこのワインから。味も知らずに注文したのかって? 彼女と会うのもこれが最後と思いっきり張込んだんでございます。「ワイン名鑑」なんて本で、名前と由来と格とラベルの格好良さで選んで。そのラベルを台紙付きでもらいました。私のラベルコレクションもここからです。

かつての独身貴族は元嫁・娘ができて没落し、今や飲めるワインはお値段1/100なフルボトル500円。トホホホホ・・・

「ワインはブルゴーニュのコートドニュイ(地区名)だよ」とだけ言って料理は彼女に選んでもらいました。子牛の喉肉になったような。ギャルソンが自分の喉に手をあてて、「この辺の」と言ったしぐさを思い出した。

という訳で、私が詩歌の世界に首を突っ込んだり、ワインに凝ったり、クリスタルグラスボーンチャイナを色々持っていたり、テーブルマナーに詳しかったりしたのはみ〜んなその彼女の影響。私が日本酒も美味しいと知ったのもその彼女に「吉乃川」の古酒を貰ったからだなぁ。
劣等感打破のため、妹二人を連れて銀座のマキシムに攻め込んだのはその1980年6月の末だったみたいです。写真が残っていた。このときのワインはシャンベルタン・クロド・ベーズ73年。これも素晴らしかった。


そんな彼女の影響の恩恵にあずかったのはシャンベルタンの10年後に結婚した元嫁と、すぐに生まれた娘です。娘はもうすぐ2歳という頃から誕生日とかクリスマスとかのイベントには鎌倉の丸山亭に連れて行きました。この頃嫁は既に元嫁でしたがすぐ近所住んでいたので。

そんなちっちゃな子を連れて行くのはマナー違反だろうって? 
丸山亭には入り口の脇に半個室コーナーがあったんです。ここなら大丈夫と店主が。



一般席デビューは5歳の誕生日でした。
たまたまその日はほかにお客さんがほとんどいなかったからか、ギャルソン(店主?)が、
「もうお姉ちゃんになられたんでこちらにデビューしましょうかと♪」 それまでは店主のアドバイスで娘は10種類の野菜のスープだけで、あとは私と元嫁のフルコールから分けてもらっていたのが、自分もフルコールに昇格して大喜びでした。これは「あたしは大人の女よ♪」ポーズ(笑)
そのころ元嫁はスタイル画をよく書いていたので。



下は小学校の卒業式の後。丸山亭の外側の写真はこれしかありません。

おかげてテーブルマナーでドギマギすることことはないと感謝されてます。
シャンパングラスの持ち方は変だけどね。まあそれぐらいはいいか。

丸山亭の開業はちょうどその1980年だとか。つまり高井戸のシャンベルタンは我が家のフレンチ発祥の地で、それが銀座のマキシム、鎌倉丸山亭へと引き継がれた訳でございます。
でも元嫁は「お金持ちかと思ったのに大失敗!」だったかも。

えっ、このページは「高井戸の旧家・内藤家」のページじゃなかったのかって?
いえいえ、私が内藤家を意識したのはそのシャンベルタンでの彼女との会話だったのです。
「なんでこんなところにこんなレストランがあるんだろう?」と言ったら、「このあたりの昔からの旧家が内藤家で、その内藤一族が高井戸の文化的地位向上に役にたつことをしようと申し合わせたらしいの。浜田山の駅前のライブタウン浜田山もそのひとつ。ここもそうなんでしょう」と。

あれは新しい集合住宅として建築雑誌にも取り上げられていたような。wikipediaには「一戸建て感覚で、かつ豊かな外部空間と、調和のとれた景観をもつ集合住宅」と。

今思い出しましたが、そのときギャルソンのメニューの説明で、一番高い一品が「オーナーの家が味噌を造っていましたので、それにちなんで味噌を使った牛肉の(なんじゃらかんじゃら)」だったような。井伏鱒二の『荻窪風土記』に内藤本家の火事の話が出てきますが、その中に「醤油の小売」という話が。醤油を作っていたなら味噌だって。ならばシャンベルタンのオーナーは内藤庄右衛門家だった? それとも醤油が庄右衛門家で、味噌は与蔵家?
いや、そうと決まった訳ではありませんが。

打越の内藤与蔵家

その内藤与蔵家へ行ってみましょう。冒頭の写真で「栗の内藤」と書いてある屋敷森です。何で「栗の内藤」と書いたのかというと、googleの地図に「くりのないとう」という建物があるからです。森泰樹氏の『杉並風土記・下』の航空写真には「内藤与蔵家の杉林」とありますが、今は屋敷森以外は栗林になっています。いや、他にも有力な内藤家があったのかもしれませんが、資料に出てこないので。

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こちらが北側から見た屋敷森。広いですよ。航空写真で屋敷森を比較すると、東にある正用の内藤庄右衛門家と、西のこちら、打越の内藤与蔵家はほぼ同じぐらい。

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本家は正用の内藤庄右衛門家であったとしても、打越の内藤与蔵家は江戸時代からの分家で、こちらはこちらで長い間にかなりの財をなした旧家のように見えます。だって屋敷森は所有地の一部で、その数倍の田畠を持っているはず。という以上の根拠は無いのですが。
でも、東の正用・内藤庄右衛門家。西の打越内藤家という勢力範囲で、内藤庄右衛門家は醤油、打越内藤家は味噌を作って江戸やら東京市の巨大市場に供給していたと想像すると、シャンベルタンのオーナーはこの打越内藤家だったという可能性も。
そしてシャンベルタンの前のあの「内藤家?」は打越内藤家の戦後の分家とか。だって1947年の航空写真では屋敷森に見えないんですよ、「?」なところには。かなり荒い画像なんですが。内藤家のどなたかがこのページを見て「ちゃうわい、これこれこうじゃい!」とメールを下さると有り難いのですが。

ここが正門? 奥には農家の作業小屋みたいな古い建物が。 写真には写っていませんが、左に「くりのないとう」という建物があります。「今年の栗の販売は終了しました」と。

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(2021.10追記)