付5. 流布している俗説

  1. 吾妻鏡・明治の研究
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値
  9. 吾妻鏡の諸本  
      
    付1.吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
    付2.和田合戦に見る吾妻鏡と明月記
    付3.龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」
    付4.江戸時代の吾妻鏡研究
    付5.流布している俗説
    付.参考文献

 

流布している俗説

吾妻鏡は源頼朝の死亡時期に3年以上の記事がないなど欠落している箇所もある。

それに対して、江戸時代に徳川家康が、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったという俗説がまことしやかに流布している。もちろんこの説に証拠は無い。そうなんじゃないかという憶測に過ぎない。何の根拠も無い都市伝説に近いものである。

かつてはWikipediaにもこう書かれていた。

源頼朝の死亡時期の記事がないなど、欠落している箇所もあり、他の史料も合わせて参照する必要がある。こうした欠落が偶然散逸した結果なのか、意図的に抹殺されたのか等、議論が分かれるところである。また、ある伝承によると、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいう。

尚上記の記述は2段階となっており、2005年12月6日の版から「ある伝承」以降が加えられた。そこで加えられたものと、それ以前の部分に分けて検討してみよう。

「ある伝承」以降については議論は分かれやしない。荒唐無稽である。それは吾妻鏡は金沢文庫に完本であった原本が、小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に完本の状態で渡っていたのではという想像から始まっている。しかしそれがそうではないことは前述の通りである。『吾妻鏡』は部分的ながら複数、かつ相当数が江戸時代に入る前から存在した。家康が慶長活字版を編纂させた段階でも、家康が知らなかった島津本、吉川本、毛利本、水谷本、黒川本その他が有った。それらの写本に源頼朝の死亡時期の記事があり、慶長活字版を含むいわゆる北条本にのみ無かったのであれば、家康抹消説も成り立つかもしれないがそうではない。

鎌倉時代末期か南北朝時代に作られたと見られる全52巻とする目録でも、頼朝の時代の最後の記事は15巻の建久6年であり、そこまではほぼ1年単位に1巻としている。そして建久7年から、同8年9年の3年分を欠いて、16巻が頼家将軍記の最初の正治元年である。黒川本の目録部分の終わりに「応永十一年(甲申)八月二十五日以金沢文庫御本書畢」(応永11年とは1404年)とあったといい、この黒川本は関東大震災で焼失し、その目録部分の撮写のみが東大史料編纂所に残っている。

従って、我々が家康がその存在を知らなかったと思っている諸本すら実は密かに知っており、隠密を放って改竄させた。あるいはタイムマシンで1404年以前の金沢文庫に忍び込み、建久7、8、9年を抹消し、目録を改竄した、とでもしないかぎりこの説は成立しない。更にその目録編纂時点以前に『吾妻鏡』には複数の版が存在していた。

頼朝将軍記の欠落はむしろ寿永2年である。ただし寿永2年の記事が養和元年に入っていることを益田宗が指摘し、石井進が1962年に論文として発表したのが「志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」『鎌倉武士の実像』収録であり、これは散逸ではなく編纂ミスであることが解る。

「ある伝承」以前についてはそこまでは荒唐無稽ではないが、それでも星野恒は明治22年(1889年)の「吾妻鏡考」にこう書く。「将軍継代ヲ以て巻ヲ別ツ、世俗本書ニ頼朝死去ノ条ヲ失スルヲ見テ、種々ノ憶説ヲ架スルハ皆無稽トス」(『史学叢説』1 p597割書)。つまり『吾妻鏡』は6つの将軍記として編纂されており、もしも書かれていたとしたら3巻(3冊)に相当するだろう。それがちょうど頼経将軍記の間の嘉禄元年から安貞元年までの3年分のように鎌倉時代末期か南北朝時代の目録作成までの間に失われたと見るか、あるいは頼朝将軍記は未完であったと見るかのいずれかとなる。ただし嘉禄元年から安貞元年までの3年分はその前後から類推するとほぼ1巻分であり、吉川本でも1巻となっている。その3年分が先に述べた「吾妻鏡脱漏」であり、現在の「国史大系本」にも収録されている。しかし1巻の紛失と連続する3巻の紛失ではその可能性は全く異なる。

星野恒が「種々ノ憶説」としたのは家康隠蔽説かどうかは文明ではないが、「皆無稽」とも語気からすればその可能性は高い。また星野恒の「将軍継代ヲ以て巻ヲ別ツ」との部分から建久7、8、9年は最初から存在しなかったと見ているように受け取れる。

ただしそれでも「憶説」も発生しうる。例えば、星野恒がそれを書いてから、70年以上も後の1961年に石井進が「『吾妻鏡』の欠巻と弘長2年の政治的陰謀(?)」で書いたように「北条氏執権政治護持の立場からする真実の歪曲、美化、あるいは隠蔽という『吾妻鏡』の編者にとっての至上の要請の前に、これらの年々の叙述は困難をきわめ、ついに未完成のままほうり出される仕儀にいたったのではあるまいか」という憶測などである。この石井進の憶測が、失われたのではなく「未完成」とし上でなのだが、問題はそこに政治的な意図があったのかどうかである。

しかし石井進がそれを書いた1961年であり、石井進もそう断定した訳ではなく、直後に「私は偶発的散失の事実自体を決して否定するわけではなく、『吾妻鏡』の欠巻の理由の全てを上記の仮想で割り切ろうというのではないから」として、最後に「もう止めよう。初め「仮想」とことわった私の見込みは「仮想」たりうるどころか、ついに「妄想」にまで転落してしまったらしいから」と結んでいるのであって、むしろ『吾妻鏡』に書かれていないことは無かったこと、あるいは重要で無かった事件と結果的にはしてしまうことへの注意喚起と捉えることが重要であろう。残念なことは、弘長2年の肥前国国分寺地頭の譲状にある「かまくらにひそめく事あてめさるる」という動員が何であったのかが未だに不明なことである。


2008.11.23